いまも富士スピードウェイにも残る、30度バンク。ショートコースの奥に壁のように残っていて、現在は「メモリアルパーク」として整備、保存されている。そんな30度バンクだが、いったいどんなものだったのか。レースやクルマの歴史に詳しい遠藤一満氏に聞いた。
画像: 富士スピードウェイに今も残る30度バンク。DVD/BD化されて話題となった1969年製作の石原裕次郎主演の映画『栄光への5000キロ』では、その走行シーンを楽しむことができる。

富士スピードウェイに今も残る30度バンク。DVD/BD化されて話題となった1969年製作の石原裕次郎主演の映画『栄光への5000キロ』では、その走行シーンを楽しむことができる。

肉体的にも精神的にも過酷なコース

1966年にオープンした富士スピードウェイは、1.6kmを超えるホームストレートとそれに続く30度バンクを持つ、世界でも稀な超高速サーキットだった。とくにストレートから全開のまま進入するバンクは、ドライバーにとっては壁に突っ込んでいく精神力が、クルマにとっては横Gと縦Gの両方に耐える強靭さが要求された。地形の関係から下から吹き上げる横風も強く、30度バンクの攻略はドライバーにもクルマにも過酷な試練だったのだ。

開業当時はフラットだった路面も、レースで酷使されるにつれ波打ち始め、そこに車両床面が接触して火花を散らす光景がバンク名物のひとつとなっていく。中でも大きなうねりは後に「馬の背」と呼ばれ、難しい攻略ポイントとなったことを覚えている人もいるだろう。

観衆は、1本しかないレコードラインを競ってアクセルペダルを踏み続け、サイドバイサイドで突っ込んでくるレースカーに目を釘付けにしたのだが、進入が難しいバンクだけに死亡事故も何度か起こっている。

死亡事故も起こり30度バンクは閉鎖された

最初の犠牲者は1966年5月。開業直後に開催された第3回日本GPで強い横風に煽られてコースアウトしたベレットGTの永井賢一氏だった。

1973年1月の富士GC(グランチャンピオンレース)最終戦ではシェブロンB32フォードを駆る中野雅晴氏が、スタート直後のダンゴ状態の中で起きた多重事故に巻き込まれ死亡。翌1974年の富士GC第2戦(300km)は、前年の事故を教訓にローリングスタートとしたが、第2ヒートのスタート直後、バンクのレコードラインを争う前走車の接触事故に巻き込まれる形でシェブロンB26の風戸裕氏とローラT292の鈴木誠一氏が死亡する大惨事となった。
 
これを機に富士スピードウェイの名物でもあった30度バンクは閉鎖され、今は公園として過去の名勝負の跡を留めている。

画像: 現在は「30度バンクメモリアルパーク」として保存されている。

現在は「30度バンクメモリアルパーク」として保存されている。

画像: 1969年5月に開催されたJAFグランプリでの30度バンクの様子。このレースはフォーミュラマシンで闘われた。

1969年5月に開催されたJAFグランプリでの30度バンクの様子。このレースはフォーミュラマシンで闘われた。

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