ヤマハ発動機(以下、ヤマハ)単独での四輪開発が頓挫しそうなタイミングでトヨタと出会い、トヨタDOHCエンジン開発の中核を担う時代を経て、独自エンジンでのF1参戦も果たす。そして、ヤマハの四輪開発はこれからも続く。YAMAHAのお仕事第7回、最終回では現在の四輪の開発状況を追う。

解説:大内明彦

ヤマハとトヨタと協業は必然か?地場産業の絆も後押し

ヤマハとトヨタの出会いは、思わぬ場面から始まった。2000GTのところ(Part.1: http://web.motormagazine.co.jp/_ct/17146327)でも触れたように、4輪事業に興味を示したヤマハが、その売り込み先としてトヨタに出向いたところから両社の接点はできた。

以後、エンジンを中心にトヨタの技術開発、あるいはエンジンデパートメントとして機能してきたが、その関係も1980年代中盤以降は希薄なものとなる。トヨタが推し進めた内製化によるものだが、トヨタの社史に沿えば、外注企業に頼る例のほうがきわめてまれだった。

戦後の復興期を経て、本格的な自動車生産に乗り出す段階において、日産やいすゞは海外メーカーのノックダウン方式に多くを学んだが、トヨタだけは終始内製に固執し、困難に直面しながらもクラウンの独自商品化につなげていた。

そのトヨタは、ひょんな出会いのヤマハと2000GTの共同開発を行い、その後立て続けにトヨタ7やDOHCエンジンの開発をヤマハに委ねていた。当時、自動車工学的に見たヤマハやトヨタ、というより日本の技術が、まだまだ稚拙であったことは疑う余地もない。そうした現実を踏まえた上で、2000GTの開発プロセスで見せたヤマハの対応に、トヨタは共感を覚え、信頼を置いたのではなかろうか、と思えてしまう。

画像: ヤマハが四輪事業に携わるようになったきっかけとなったトヨタ2000GT。

ヤマハが四輪事業に携わるようになったきっかけとなったトヨタ2000GT。

あともうひとつ、ヤマハとトヨタは地場産業という点でつながりがある。豊田グループの創始者、豊田佐吉翁の出身地は浜名湖(静岡県)の西端に位置する現在の湖西市である。

2017年に佐吉の生誕150周年記念の式典が行われたばかりだが、トヨタを中心に遠州地方を足場とする企業間の結びつきは強いという。日本楽器製造(現・ヤマハ株式会社)、ヤマハ発動機もそうした企業のひとつで、浜松市(旧・可美村)にあるスズキもトヨタとのつながりは長くて古い。ビジネスの関係だけではなく、きわめて日本的だが、地域コミュニティとしての付き合いである。

そのヤマハ発動機が、楽器メーカー「日本楽器製造」の2輪部門から独立したのは1955年。モーターサイクルレースの活動で知名度を上げ、またたく間に世界的な知名度を上げていくことになる。

奇しくも2輪での最大のライバルとなるホンダも、浜松が地盤の企業である。浜名湖を取り囲む地域に世界のバイクメーカー3社が揃うのは偶然にしても出来すぎだ。ちなみにそのホンダは4輪進出のきっかけをS360/S500の小型スポーツカー路線に求めていた。

ヤマハの歩みはホンダの足取りと近似するが、唯一異なる点は4輪車メーカーとしてスタートを切らなかったことだ。

それはトヨタ2000GT以降の歴史が示すとおりで、良くも悪くもトヨタという巨大企業の存在が、ヤマハの命運に影響を及ぼしてしたように見える。

しかし、最近の動向を見るまでもなく、ヤマハには厳然とした4輪車指向が息付いている。2017年の東京モーターショーにはSUVの「クロス・ハブ・コンセプト」、前回2015年にはスポーツカーの「スポーツ・ライド・コンセプト」、さらには前々回となる2013年にはシティコミューターの「MOTIV」を参考出品している。

ヤマハ側に出品した意図を尋ねてみると「4輪車開発をしっかり考えています、ということをお客様に知っていただきたくて」という答えが返ってくる。

技術集団ヤマハ発動機。

そのヤマハが今後なにをしてくれるのか、期待は膨らむ一方だ。

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