レガシィやフォレスターなど北米を中心に躍進する国産自動車メーカー、スバル。その前身である富士重工業や中島飛行機の時代までさかのぼりって、その製品と時代背景を追う短期連載「スバルの全仕事」。全3回で送る第2回(中編)は1946〜1962年の富士重工業黎明期。(ホリデーオート2018年4月号より抜粋)【前編は→https://web.motormagazine.co.jp/_ct/17175792

■文:遠藤一満/写真:SUBARU

富士重工業黎明期(1946〜1962年)

1945年の第二次世界大戦の敗戦によって、中島飛行機は解体された。さらに1949年には創業者の中島知久平の死去など苦難が続く。その後、富士産業の時代、同社から分離、独立した12社の時代を経て、さらにその中から5社が合併することで新会社「富士重工業」となる。すでにラビットスクーターやバスボディの製作を手がけていたものの、乗用車製作は手探りの状態。そんな中、ものづくりに技術力を発揮することになる。

画像: 【ラビット】当初の富士重工業の屋台骨を支えたラビット。宣伝にトップスター高峰秀子、白川由美などを起用してオシャレ感を訴求する。

【ラビット】当初の富士重工業の屋台骨を支えたラビット。宣伝にトップスター高峰秀子、白川由美などを起用してオシャレ感を訴求する。

中島飛行機解体後、12社が独自の道を進むが航空機開発は諦めない

第二次大戦終戦まで東洋最大の航空機メーカーだった中島飛行機は、敗戦と同時に航空機の製造はもちろん研究すら禁止される。さらに、GHQにより会社そのものが12社に解体され、それぞれ平和産業への転進を図ることになった。

太田工場を母体とする富士工業は、一式戦闘機・隼に関わっていた技術者が中心となり、スクーター「ラビット」を開発。これが1948年に発売されるや爆発的な人気を得た。小泉工場は小泉ボデー製作所を設立し、バスボディ生産の道を歩みだす。また伊勢崎工場を母体に発足した富士自動車工業は、バスのモノコックボディを開発し、バスボディに革新をもたらした。大宮工場を母体とする大宮富士工業は各種エンジン制作に注力し、中島飛行機時代の技術を応用した航空機用ジェットエンジンJO-1の開発にも乗り出す…。

それぞれの道を歩み出した12社だが、1952年の対日平和条約発効を機に大合同の機運が生まれ、1955年には富士工業と富士自動車工業を中心とした5社による「富士重工業」が誕生する。

画像: 【バス】1946年末、群馬バスに納入された小泉ボデー製作所の1号車。航空機の技術を生かしたキャブオーバー型だ。

【バス】1946年末、群馬バスに納入された小泉ボデー製作所の1号車。航空機の技術を生かしたキャブオーバー型だ。

戦後の困難を乗り越え、人間のために地も空も駆ける

発足間もない富士重工業の主力は、売り上げの49%を占めるラビットだった。バスボディも国内市場2位と健闘するが、シャシーを持たないことに危機感を抱いた伊勢崎製作所は自動車開発に乗り出した。宇都宮製作所は鉄道車両開発の道を選ぶ。1955年には国鉄から気動車メーカーの正式認定を受け、1960年にディーゼル特急はつかりの車両を納入している。大宮製作所は苦戦したものの汎用機に商機を見出し、1960年にロビンエンジンを搭載した耕運機を自社開発して発売した。

画像: 【はつかり】鉄道車両の製作に活路を見出した宇都宮製作所は、1960年に国鉄にディーゼル特急「はつかり」の車両を納入した。

【はつかり】鉄道車両の製作に活路を見出した宇都宮製作所は、1960年に国鉄にディーゼル特急「はつかり」の車両を納入した。

しかし、中島飛行機育ちの技術者たちは大空への夢を捨てたわけではない。1952年に公布された航空機製造法を受けて、富士重工業は米国ビーチ・エアクラフト社のメンターT-34の製造ライセンス権を取得。ノックダウン生産から始めて、1953年には待望の国産1号機を完成させている。

1955年には防衛庁の要請で純国産ジェット機の開発に臨む。そして1957年に完成したのが試作機T1F2で、戦後航空市場にとって象徴的な出来事となった。

こうして練習機で実績を重ねた富士重工業は、YS-11の主翼桁と尾翼を担当。この経験が技術力の飛躍的向上をもたらし、次期民間輸送機YXの国際共同開発に繋がっていく。

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