市販車では少しナンパな路線で売られていたセリカだが、モータースポーツではラリーを中心にヘビーデューティに使われていた。そんな歴史を振りかえってみたい。

セリカGTーFOURがグループAの時代に輝きを放つ

トヨタが初めてWRCにフル参戦した時のマシンが、グループAのセリカだった。モンスターマシンのグループBがフェードアウトし、1987年から量産車ベースのグループAに替わると、トヨタはその参戦車両としてセリカGT-FOURに白羽の矢を立てた。4WDで、2Lの4バルブDOHCターボという、最良のスペックを備えていたからだ。それはライバルに対して勝るとも劣らないマシンとなっていた。

画像: 1990年の1000湖ラリー。優勝したカルロス・サインツは、この年4勝を挙げて日本車に乗った初のワールドチャンピオンとなる。

1990年の1000湖ラリー。優勝したカルロス・サインツは、この年4勝を挙げて日本車に乗った初のワールドチャンピオンとなる。

ST165型セリカは86年10月に発売されたが、規定の5000台の生産をすぐには満たせず、FRのスープラで間をつないだ後、88年のツール・ド・コルスでデビューする。当初は3S-GTEエンジンもパワー不足だったが、89年のオーストラリアで、ユハ・カンクネンが初優勝を飾る。

画像: 1990年のサファリ・ラリーではB.ワルデガルドのドライビングで優勝し、耐久性の高さも実証した。

1990年のサファリ・ラリーではB.ワルデガルドのドライビングで優勝し、耐久性の高さも実証した。

しかし、ST165といえば、スペイン人のカルロス・サインツである。期待の若手として彗星のごとく現れたサインツは、果敢な走りによって90年に日本車初のドライバーズ・タイトルを獲得した。ST165は油圧制御のセンターデフに見どころがあり、アスファルト路面の低速コーナーでは、ライバルのランチア・デルタがFF的に曲がるのに対し、FRのような鋭いパワースライドを見せるのが印象的だった。

画像: ST165セリカの操縦性の高さはWRC随一。グラベルはもちろん、スノー、ターマックとステージを選ばない。

ST165セリカの操縦性の高さはWRC随一。グラベルはもちろん、スノー、ターマックとステージを選ばない。

セリカは89年にモデルチェンジされたが、新型のST185はWRCにはなかなか投入されず、ワイドトレッド化や、インタークーラーの水冷化などが施されたホモロゲーション用モデル、GT-FOUR RCが市販されたことで、ようやく92年から実戦投入された。当初は赤いホルスタインのようなカラーリングだったが、93年からはいかにもワークスマシンらしい華やかなカストロールカラーになり、堂々とWRC頂点の座に君臨する。

画像: ST185セリカは93年からカストロールカラーになり、3年連続ドライバーズ・タイトル、93・94年は連続ダブル・タイトルを獲得して一時代を築いた。

ST185セリカは93年からカストロールカラーになり、3年連続ドライバーズ・タイトル、93・94年は連続ダブル・タイトルを獲得して一時代を築いた。

サインツ、カンクネン、ディディエ・オリオールという当代屈指のドライバーの手で、92年から3年連続ドライバーズ・タイトルを獲得。中でも93、94年は連続ダブルタイトルで、念願のメーカータイトルをものにした。

画像: ST205セリカは大柄なボディとスーパーストラットサスの熟成に苦労し、TTEの手によっても1勝が精一杯だった。

ST205セリカは大柄なボディとスーパーストラットサスの熟成に苦労し、TTEの手によっても1勝が精一杯だった。

96年に代替わりしたST205は、残念ながら苦戦する。鳴り物入りのスーパーストラットのフロントサスが、グループAラリーカーでは芳しくなく、車体もやや大柄で、コーナリングに苦心した。勝利はわずか1勝にとどまり、成績不振からの焦りか、TTE(チーム・トヨタ・ヨーロッパ)は車両規則違反を起こして出場停止処分となる。

トヨタは98年に復帰し、カローラWRCが世界王者に返り咲くが、その中身はセリカGT-FOURで培われたものだった。やはりグループAセリカがトヨタWRCの華といえるだろう。(文:武田 隆)

画像: トヨタ・セリカの世界ラリー奮戦の歴史は、ホリデーオート2018年12月号にも掲載されています。

トヨタ・セリカの世界ラリー奮戦の歴史は、ホリデーオート2018年12月号にも掲載されています。

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