「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:モーターマガジン社)*タイトル写真は1987年6月13-14日ル・マン24時間レース。

松本恵二、鈴木亜久里と組んでル・マン初参戦

国産Cカーのル・マン挑戦は1983年のマツダ717Cが先駆となる。しかし国内外のグループCレースの人気によって、85年にはトムスがトヨタエンジンを搭載したマシンで初挑戦して12位完走するなど、ル・マンへの注目度は高まっていた。

日産のグループC活動を行っていたニスモも、85年のWECジャパンでの勝利によってより大きな予算を獲得、86年には初のル・マン挑戦を実現させることになる。

すでに年齢的にF1GPへの道が難しくなっていた星野にとっても、世界の耐久レースの最高峰であるル・マンは、新しい大きな目標となっていた。

ニッサン86Vと名付けられた86年用のニューマシンは、シャシーはやはりマーチの86年モデルである86G。これにVG30エンジンを搭載したマシンだった。デビューは全日本耐久選手権の開幕戦の鈴鹿500kmだったが、星野は荻原光と組んでおり、スタート前に炎上してDNS(スタート前棄権)。その次のレースがいきなりル・マン24時間となる。

星野は松本恵二、鈴木亜久里と組んでの参戦となったが、予選は24位、決勝も64周でエンジンのトラブルでリタイア。その後、再び全日本選手権に参戦、4戦してPP2回、予選2位1回と一発の速さは見せるが信頼性は改善されず、決勝の完走はWECジャパンでの10位のみ、残りは全てリタイアに終わる。

画像: 初のル・マン参戦。コドライバーは松本恵二と鈴木亜久里。決勝は64周でリタイア(23号車)となる。もう一台の長谷見 / 和田 / ウィーバー組の32 号車は 285 周で 16位完走を果たす。(1986年5月31日-6月1日ル・マン24時間レース)。

初のル・マン参戦。コドライバーは松本恵二と鈴木亜久里。決勝は64周でリタイア(23号車)となる。もう一台の長谷見 / 和田 / ウィーバー組の32 号車は 285 周で 16位完走を果たす。(1986年5月31日-6月1日ル・マン24時間レース)。

87年、88年も無念。光が見え始めたのは89年から

翌87年も引き続きマーチ製のシャシーを使用したが、市販エンジンのVG30ベースではなく、レース専用に新設計された3リッターV8ターボのVEJ30を搭載したニッサンR87Eを投入。しかし、待望のVEJ30は全日本ですら完走がおぼつかない。ル・マンでは長谷見組が14位完走するものの、星野のマシンは181周でまたしてもエンジントラブルでリタイアとなる。

88年はVEJ30を大改良したVRH30を搭載したニッサンR88Cが星野に与えられた。しかしこの年も全日本で最上位5位、ル・マンではまたもリタイア。一向に結果が出ないまま、日産と星野は、3シーズンを費やしてしまう結果となった。

そして、89年には完全なニューマシン、ニッサンR89Cが姿を現す。これまでのマーチ製シャシーではなく、専用に設計されたフルカーボンのローラ製シャシーに、新開発されたV8の3.5リッターターボのVRH35エンジンをマウント。星野が長谷見昌弘・鈴木利男とのトリオで、このマシンに初めて乗ったのはル・マン24時間だったが、結果、167周でリタイアとなる。

ちなみに富士500マイルから3戦を走った全日本でも、星野の乗ったマシンは完走できなかった。しかし、予選では安定した速さを発揮。それまでの悪い流れを断ち切るきっかけとして、翌90年以降に期待を感じさせるマシンだったという。(次回に続く)

画像: エンジンを大改良したニッサンR88Cで臨むも、星野/和田/亜久里の23号車は286周でリタイアとなる(1988年6月11日-12日ル・マン24時間レース)。

エンジンを大改良したニッサンR88Cで臨むも、星野/和田/亜久里の23号車は286周でリタイアとなる(1988年6月11日-12日ル・マン24時間レース)。

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