オハイオ州メアリーズビルにあるホンダの米国生産拠点、ホンダ・オブ・アメリカ・マニファクチャリング(HAM)で生産されたスペシャリティカーがアコードクーペ。北米仕様、それも左ハンドルのまま輸入/販売されていた稀少な車種だ。

アコードクーペってどんなクルマ?

初代アコードクーペは、3代目アコード(CA型)をベースに作られた2ドアクーペだ。

「アコード」自体は、2代目の時代、1982年から、日本車としては初めてアメリカで生産されたモデル。「需要のあるところで生産する」という理念に基づいているが、ホンダはとくにアメリカを日本に次ぐ供給基地と位置づけ、この頃から研究/開発、生産体制を拡充していた。

このアコードクーペも、デザインやエンジン、足まわりのチューニング、装備類のセレクトなどを、アメリカの研究開発拠点ホンダR&Dノースアメリカ(HRA)が主体となって担当、また生産をオハイオ州メアリーズビルのホンダオハイオ工場(HAM)で行い、日本に輸入されたもの。日本の自動車メーカーが、自社の海外工場から自社ブランドの乗用車を輸入して日本で販売するのは、このモデルが初めてのケースとなった。

発売はホンダクリオ店、発表は1988年の今日、4月8日で、発売日は同年の4月22日。

画像: 195/60 R14 85HサイズのミシュランMXVが標準。クルーズコントロールや本革シートも標準装備するなどスペシャリティカーらしい内容だった。

195/60 R14 85HサイズのミシュランMXVが標準。クルーズコントロールや本革シートも標準装備するなどスペシャリティカーらしい内容だった。

パワーユニットはA20A型 2L直4 SOHC 12バルブ(吸気2排気1)+PGM-FI。120ps/16.9kgmを発生、トランスミッションは4速ATのみで燃費は10モードで8.8km/Lだった。

この初代アコードクーペは米国仕様を輸入したもので、ハンドル位置は左ハンドルのみ。本革巻きステアリングを採用していた。

画像: アコードクーペは左ハンドルのみの設定。トランスミッションは4速AT。スピードメーターはキロメートル/マイル併記だった。

アコードクーペは左ハンドルのみの設定。トランスミッションは4速AT。スピードメーターはキロメートル/マイル併記だった。

またドアの開閉だけでベルトの着脱が行える「パッシブシートベルト」をフロントに採用。インテリアシート表皮には上質な感触・風合いに仕上げられた本革を採用した。ドライバーズシートはバケットタイプとし、しっとりした感触が特徴だった。

画像: アコードクーペの室内。非常に豪華。乗車定員は5名。

アコードクーペの室内。非常に豪華。乗車定員は5名。

オーディオシステムはアコード クーペのためにBOSE社が専用開発したシステムであり、高質な音響 を得るためキャビンの広さ、形状、シートの位置、素材、ボディ構造に至るまで徹底的に分析。ボーズ博士が自らサウンドをチューニングしたものだった。

また同時に、HAMでのみ生産されていた大型ツーリングバイク「ゴールドウイング」も同じタイミングで輸入されている。ゴールドウイングは1975年に発売以来、米国や欧州を中心に長距離ツーリングバイクとして独自の文化とステータスを作り上げていたモデルで、豪華な装備がもたらす豪壮なグランドツアラーとして、日本でも人気になった。

画像: 手前がゴールドウイング。175万円と高価だったが日本での人気も高かった。

手前がゴールドウイング。175万円と高価だったが日本での人気も高かった。

アコードクーペは、以来現在まで7世代のモデルがアメリカで生産/販売されているが、日本に輸入されたのは初代、2代目、3代目まで。1994年2月に登場した3代目アコードクーペは、バブル崩壊もあってか人気が低迷、1997年に輸入が打ち切られている。

画像: スリーサイズは4565×1695×1340mm。ホイールベースは2600mm。

スリーサイズは4565×1695×1340mm。ホイールベースは2600mm。

車両価格(当時。税別)

アコードクーペ 260万円(東京)

 

1988年(昭和63年)には何があった?

ニュース

●ソウルオリンピック開催
●東京ドーム完成
●ドラクエⅢ/メガドライブ/リゲイン発売

ヒット曲

●パラダイス銀河 光GENJI 
●ガラスの十代 光GENJI 
●乾杯 長渕剛

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