今や日本グランプリと言えば、「F1の日本グランプリ」を指すのが当り前になっているが、かつては「F1ではない日本グランプリ」があった。しかも、その日本グランプリは、現在のF1日本グランプリと同等、いやそれ以上の関心を集めた一大イベントだった。そしてその中でも頂点を極めたと言えるのが、1969年10月に富士スピードウェイで開催された日本グランプリである。そのかつての“日本グランプリ”を振り返る短期集中連載をお届けする。

富士スピードウェイに10万3000人の観衆が集結

古くからのモータースポーツファンには前年から続く「TNTの対決」として知られるこの一戦は、日本の自動車レース史の本格的幕開けとなった1963年の第1回日本グランプリ(鈴鹿サーキットで開催)から数えて6回目の日本グランプリであった。

年数と回数が合致しないのは、1965年大会が開催地の鈴鹿サーキットとグランプリ開催権を持つJAFの調整がうまく行かず開催されなかったからだ。1年の空白を経て1966年に新設の富士スピードウェイに舞台を移して開催された第3回日本グランプリ以降は、それまでのツーリングカー/GTカー主体のレースからレース専用のプロトタイプスポーツカーによるレースへと内容が一新。出場するドライバーたちもプロフェッショナル化が進み、アマチュアの自動車好きのお祭りから自動車メーカーの真剣勝負の場へと変容していった。

それと同時に、日本のモーターリゼーションの急速な発展とともに自動車レースへの注目度も高まり、その原点かつ最高峰である日本グランプリの価値は高まっていく。1969年日本グランプリ(1968年より大会名から第○回の名称が外された)は、それらが頂点に達した一戦でもあった。

決勝のグリッドには主役であるTNT(T=トヨタ、N=ニッサン、T=タキ・レーシング)を中心に「ビッグマシン」と呼ばれるグループ7やグループ6、グループ5規定(当時)のプロトタイプスポーツカーがズラリと並び、その車種バラエティは、ヨーロッパを中心に開催されていた世界メイクス選手権や北米の人気シリーズ、CAN-AMにもヒケをとらなかった。

前年からのレベルアップも著しく、ポールポジションタイムが6秒強も短縮されるヒートアップぶり。レースの走行距離も前年80周(480km)から120周(720km)に延ばされ、決勝レース当日の富士スピードウェイは10万3000人の観衆で埋め尽くされた。まさに日本モータースポーツ史の黎明期における最大・最高のレースだった。

次回からは、この「世紀の一戦」にエントリーした53台の中から、忘れ難きマシンたちを紹介していく。

画像: ポールポジションは奥の20号車ニッサンR382(北野元)。予選グリッドは4-3-4左上位方式。日産は予選1-3位を独占、トヨタ7の最上位は2号車細谷四方洋/久留木博之で写真手前フロントロウ右に並んでいる。

ポールポジションは奥の20号車ニッサンR382(北野元)。予選グリッドは4-3-4左上位方式。日産は予選1-3位を独占、トヨタ7の最上位は2号車細谷四方洋/久留木博之で写真手前フロントロウ右に並んでいる。

画像: ニッサンR32とトヨタ7の対決に注目が集まった。

ニッサンR32とトヨタ7の対決に注目が集まった。

画像: 優勝は21号車ニッサンR82(黒澤元治)。黒澤元治、北野元の2台はランデブー走行で周回を重ねてワンツーフィニッシュ。日産陣営はドライバー2名でエントリーしていたが交代は行わず、給油1回、タイヤ無交換で120周 (720km) を走り切った。

優勝は21号車ニッサンR82(黒澤元治)。黒澤元治、北野元の2台はランデブー走行で周回を重ねてワンツーフィニッシュ。日産陣営はドライバー2名でエントリーしていたが交代は行わず、給油1回、タイヤ無交換で120周 (720km) を走り切った。

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