2年連続のTNT対決で沸いた1969年日本グランプリを制したのは、この一戦が実戦デビュー戦となったニッサンR382だった。しかも予選は出場3台が1−2−3(ポールポジションは北野元)、決勝レースでも1−2(優勝は21号車黒沢元治)という圧勝ぶりだった。(タイトル写真は黒沢元治のドライブで1969年日本GPを制した21号車ニッサンR382)

前年1968年の日本グランプリを制した日産は完全新設計のマシン開発に着手

Rで始まる日産のプロトタイプレーシングカーシリーズは、打倒ポルシェを旗印にプリンス自動車が開発したR380 (1966年)が源流。見事に宿願を果たした第3回日本GPの3カ月後の1966年8月に、プリンスは日産に吸収合併され、R380とプリンスのレース部隊(東京・村山が本拠地)はそのまま日産に引き継がれた。

ところが改良型のR380-AIIと日産+旧プリンスのワークスドライバー連合で臨んだ1967年5月の第4回日本グランプリでは三和自動車が持ち込んだポルシェ906(カレラ6)と生沢徹の前に敗れ、日産はさらに強力なマシンの開発に乗り出すことになる。

当初はクローズドボディのグループ6マシンとして6月に開発が始まった次期型R381はその後の日本グランプリ規定の改定によって排気量無制限のオープンプロトタイプ、グループ7、いわゆる“ビックマシン”へと軌道修正され、後にR382に搭載されることになるV型12気筒エンジン、GRXの開発もこの年の11月にスタートしている。

しかし、この12気筒エンジンは1968年5月の日本グランプリには間に合わなかった。そこで日産はアメリカから取り寄せたシボレーの5.5L V8エンジンをR381に搭載。グループ6の枠にとどまるポルシェ910も、新たなライバルとして名乗りを上げたトヨタ7も敵ではなく、日産は初めて日本グランプリを制覇(優勝は北野元)することになる。

ただ、同じパフォーマンスにとどまっていては、早晩ライバルに追いつかれることは今も昔も変わらない。日産は次の1969年の日本グランプリ(恒例の5月にはフォーミュラカー主体のJAFグランプリが開催されることが決まったため10月に時期を移して開催されることになった)に向け、完全新設計のマシンを準備することになる。そのマシンこそが「R382」だった。

極秘裏に開発が進められていた6LのR382でライバルを圧倒

1968年日本グランプリ終了後、日産はR381のモディファイを続けながら、V12気筒エンジン、GRXの開発を急ぐ。当初から5Lと6Lの二本立てで開発が進められたこのエンジンが初めてサーキットに姿を現したのは、1969年日本グランプリ用マシンとしてR382の開発が正式決定した直後の1968年12月下旬のこと。まずはR381改に5L版が搭載されてテストが開始された。

一方、Rシリーズ共通の鋼管スペースフレームを主構造に外板パネルを組み合わせたボディを持つR382の設計は1969年4月に変更を余儀なくされる。1969年4月のJAF通達(FIAのレギュレーション変更を基にしたもの)によって、R381から引き続き採用する予定だったエアロスタビライザー(可変式リアウイング)が使えなくなったのだ。

R382は失われたダウンフォースを取り戻すため、リアのボディを後端に向かって跳ね上げたいわゆるダックテールを採用することになった。7月に村山のテストコースでシェイクダウンしたR382は、その後、谷田部テストコースや富士スピードウェイでの本格的なテストを開始、8月にはライバルの5L トヨタ7も姿を現したが、テストでのラップタイムでは終始R382が優位を保っていた。

そして迎えた11月の本番、日本グランプリ。日産は8月のエントリー時点で記載されていた5台/5Lエンジンではなく、3台/6Lエンジンという陣容で臨む。社内以外には極秘裏で開発が進められてきた6L仕様のGRX-3エンジンの威力もあって、R382は予選からライバルたちを圧倒し、トヨタ7軍団やタキレーシングがエントリーしたポルシェ917より3秒以上速いタイムで1-2-3グリッドを獲得。決勝でもスタートこそ出遅れたものの、圧倒的パワーですぐに優位を取り戻し、開発責任者の櫻井眞一郎の信頼の厚かった黒沢元治が優勝。北野も2位と、1−2フィニッシュで日本グランプリ2連勝を成し遂げたのだった。

そのシャシレベルは、マクラーレン、ローラといった当時最先端のスポーツプロトタイプカーに迫るものだった。レーシングカー専業ではない自動車メーカーのエンジニアたちが試行錯誤を重ねて到達したひとつの頂点として、トヨタとの開発競争を制し、自信満々で乗り込んできたポルシェを返り討ちにした殊勲のR382が、日本レース史に燦然と輝く名車であることは間違いない。

画像: 黒沢元治のドライブで1969年日本GPを制した21号車ニッサンR382。エントリーは黒沢元治/砂子義一で登録されていたが、結局黒沢元治ひとりで走り切った。

黒沢元治のドライブで1969年日本GPを制した21号車ニッサンR382。エントリーは黒沢元治/砂子義一で登録されていたが、結局黒沢元治ひとりで走り切った。

画像: 21号車とともにニッサンの1-2フィニッシュを達成した20号車ニッサンR382。北野元のドライブで予選はポールを獲得していた。エントリーは北野元/横山達で登録されていたが、こちらも北野元ひとりで走り切った。

21号車とともにニッサンの1-2フィニッシュを達成した20号車ニッサンR382。北野元のドライブで予選はポールを獲得していた。エントリーは北野元/横山達で登録されていたが、こちらも北野元ひとりで走り切った。

画像: 予選3番手の23号車ニッサンR382は燃料系のトラブルで優勝争いから脱落。可変式リアウイングの禁止によって失われたダウンフォースを補うべく、ボディ後端はウイングのような形状となっていた。

予選3番手の23号車ニッサンR382は燃料系のトラブルで優勝争いから脱落。可変式リアウイングの禁止によって失われたダウンフォースを補うべく、ボディ後端はウイングのような形状となっていた。

ニッサンR382(1969) 主要諸元

●全長×全幅×全高:4045×1879×925mm
●ホイールベース:2400mm
●トレッド(前/後):1470/1370mm
●車両重量:790kg
●エンジン型式:GRX-III
●エンジン:V型12気筒4バルブDOHC
●排気量:5954cc
●最高出力:441kW(600ps) 以上/7,200rpm
●最大トルク 627Nm以上/5600rpm
●サスペンション:ダブルウィッシュボーン(上I アーム、下逆A アーム、ダブルラジアスアーム)
●ブレーキ:ベンチレーテッドディスク / ベンチレーテッドディスク
●タイヤ:10.55-15 /12.50-15

This article is a sponsored article by
''.