1968年、1969年と日産に連敗を喫したトヨタは、1970年にその雪辱を期すべく新型車の開発を加速した。日産もこれに応戦、1970年はさらにその戦いはヒートアップするはずだった。(タイトル写真は1970年日本グランプリのために開発が進められていたニッサンR383)

もし1970年日本グランプリが開催されていたらどうなっていたのだろう

1969年日本グランプリ終了後も、日産とトヨタはプロトタイプカー開発の手を緩めなかった。

1970年10月に予定されていた日本グランプリでの3度目の対決に向け、それぞれニューマシン開発をさらに加速させたのである。日産はR382ではフロント搭載だったラジエターをサイドに移し、さらに空力的洗練を図ったR383を開発。6L V12気筒のGRX3エンジンにはターボ化の構想もあった。

一方、トヨタも5L V8をターボ化したエンジン「91E」を開発し、アルミ合金スペースフレームなど最先端素材を取り入れたシャシを持つ新しいトヨタ7「578A」を用意。両車はともに1970年日本グランプリだけでなく、その先に北米のCAN-AMシリーズ挑戦を視野に入れていた。

しかし、1970年6月、2度目の実戦参加となったR382が富士で1-2フィニッシュを飾った翌日、日産が排出ガス対策を理由に1970年日本グランプリへの不参加を表明。トヨタもこれに追従し、主役を失った日本グランプリは結局開催中止となってしまう。

日産はプロトタイプ開発から完全に撤退、以後、ハコスカGT-Rでのツーリングカーレースに集中することになった。一方、トヨタはCAM-AM挑戦を諦めず、1970年7月の富士1000kmレースには3台のトヨタ7「578A」(一台はNA仕様)をお披露目するなど順調な開発をアピール。CAM-AM挑戦は1カ月後の8月26日の役員会議で正式決定していた。

ところがその直後にまさかの悲報が飛び込んでいる。同日に鈴鹿サーキットで「578A」をテストしていた川合稔が事故死したのだ。1969年日本グランプリでトヨタ勢最上位の3位となった川合は、同年11月の日本CAM-AMでトヨタ7を駆って海外勢を破って優勝(日産は不参加)、チームトヨタのエース格となるとともに、プライベートではモデルの小川ローザと結婚するなどスター街道まっしぐらでの悲劇だった。この事故によって、トヨタはトヨタ7プロジェクトの中止を決定。「ビッグマシン」の時代は完全に終焉を迎えることになる。

日産とトヨタのプロトタイプマシンが再びサーキットで相見えることになるのは1980年代のグループC時代になってからだ。「寝た子を覚ました」黒船は、1982年秋に富士で開催されたWECジャパンに1969年日本グランプリ以来となる来日を果たし、見事に優勝を飾ったポルシェ・ワークス、最新鋭グループCマシン「ポルシェ956」だった。

画像: 社内コード「578A」と呼ばれた3代目トヨタ7。1970年日本グランプリ、CAN-AM参戦に向けて開発が進められたが、ニッサンの日本グランプリ欠場、川合稔の事故などにより開発プロジェクトは中止。トヨタのスポーツプロトタイプカーの活動も途絶える。

社内コード「578A」と呼ばれた3代目トヨタ7。1970年日本グランプリ、CAN-AM参戦に向けて開発が進められたが、ニッサンの日本グランプリ欠場、川合稔の事故などにより開発プロジェクトは中止。トヨタのスポーツプロトタイプカーの活動も途絶える。

ニッサンR383(1970) 主要諸元

 

●全長×全幅×全高:4115×2030×1088mm
●ホイールベース:2400mm
●トレッド(前/後):1497/1490mm
●車両重量:740kg
●エンジン型式:GRX-III
●エンジン:V型12気筒 4バルブDOHC
●排気量:5954cc
●最高出力:700ps 以上
●サスペンション:ダブルウィッシュボーン
●ブレーキ:ベンチレーテッドディスク
●タイヤ:12.25-15/20.00-15

トヨタ7 ( 578A型1970) 主要諸元

●全長×全幅×全高:3750×20430×840mm
●ホイールベース:2350mm
●トレッド(前/後):1468/1480mm
●車両重量:620kg
●エンジン型式:91E
●エンジン:V型8気筒 4バルブDOHC ツインターボ
●排気量:4986cc
●最高出力:800ps 以上/8000rpm
●最大トルク:725Nm以上/7600rpm
●サスペンション:ダブルウィッシュボーン

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