日本のモータースポーツシーンで外すことができないマシンにスカイラインがある。1985年のインターTECには、スカイラインRSターボが参戦した。いわゆるハコスカGT-R以来、久々にツーリングカーレースに戻ってきたわけだが、その年のインターTECではボルボ240ターボ、BMW635CSi、スタリオンに次ぐ5位に入賞した。

ニスモが開発したスカイラインRSは高性能でリーズナブル!

画像: 1985年のインターTECでは、日産は長谷見昌弘/鈴木亜久里という強力コンビを投入。マシントラブルなどもあり、決勝13位となる。

1985年のインターTECでは、日産は長谷見昌弘/鈴木亜久里という強力コンビを投入。マシントラブルなどもあり、決勝13位となる。

1985年の全日本ツーリングカー選手権に参戦したスカイラインRSターボのグループA仕様は、事実上の日産ワークスであるニスモが開発した。搭載されるエンジンはFJ20ETと名付けられた直4DOHCターボユニットだ。総排気量は1990ccでボア×ストロークは89.0mm×80.0mm。ノーマルでは最高出力190ps/6400rpm、最大トルク23.0kgm/4800rpmだが、グループA規定内のチューニングにより最高出力250ps/7400rpm、最大トルク26.0kgm/4400rpmの性能を得た。

画像: ニスモが開発したスカイラインRSターボ。レギュラーシーズンはエースを柳田春人とし鈴木亜久里とのペアで闘った。

ニスモが開発したスカイラインRSターボ。レギュラーシーズンはエースを柳田春人とし鈴木亜久里とのペアで闘った。

サスペンションはグループAということで、ノーマルと同様にフロント/ストラット、リア/セミトレーリングアームとなるが、ショックアブソーバー(フロントはストラットアッセンブリー)とスプリングはニスモでグループA用として設定したものとなり、減衰力調整機能も付く。サスペンションアームのブッシュはすべてピローボール化した。ブレーキはロッキード製のベンチレーテッドディスクブレーキだ。

画像: メーターパネルこそアルミで作製しているが、大径のタコメーター以外はノーマル感を色濃く残したコクピット。グループAの初期のマシンの常だ。

メーターパネルこそアルミで作製しているが、大径のタコメーター以外はノーマル感を色濃く残したコクピット。グループAの初期のマシンの常だ。

ホイールは当時のグループA規定ではスカイラインの排気量からは10インチまで使用できた。しかし、オーバーフェンダーが装着できないという規定のため、フェンダーからはみ出ないために、フロント8J、リア8.5Jを使用した。ホイール径も17インチまで使用が可能だったが、フェンダーとの干渉を避けるためにフロント15インチ、リア16インチとした。この辺もグループAならではの面白さといえる。

画像: ニスモは作るだけではなくグループAパーツの販売も行った。そのため、多くのプライベートチームがスカイラインRSターボを実戦投入した。

ニスモは作るだけではなくグループAパーツの販売も行った。そのため、多くのプライベートチームがスカイラインRSターボを実戦投入した。

ニスモが開発するということで、プライベートチームがパーツ購入できるというのも嬉しいところだった。車両代は別で約500万円〜600万円で当時のトップカテゴリーであるグループA仕様ができたのだから、レース参加者にとっては古き良き時代とも言える。

画像: インターTECで予選5位、決勝5位と気を吐いたのは関根基司/関実組。関根は全日本ラリーの「スカイライン使い」として知られた選手でもある。

インターTECで予選5位、決勝5位と気を吐いたのは関根基司/関実組。関根は全日本ラリーの「スカイライン使い」として知られた選手でもある。

そんなこともあり、1985年のインターTECでは出走38台のうち6台がスカイラインRSターボとなった。予選では関根基司/関実組がボルボ、スタリオンに次ぐ5位につける。決勝では、ハルトゲBMW635CSiにこそ抜かれるものの、一台のスタリオンが脱落したことにより5位に入賞。その後のスカイラインGTS-R(R31)やスカイラインGT-R(R32)の活躍を予感させる速さを見せた。

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