名機なくして名車なし。一時代を築き今も高い人気を誇るクルマたちには、必ず名機と呼ばれるエンジンが搭載されていた。そんな両者の関係を紐解く短期集中連載。今回から3回連続でトヨタ直6DOHCの系譜とその搭載車を紹介する。まずは、あのトヨタ2000GT(MF10型)に搭載されたことで著名な直列6気筒DOHC=3M型からだ。

3M型は日本の技術力を世界に知らしめた傑作エンジン

今をときめくトヨタ自動車も、1960年代初頭はまだ極東の小メーカーでしかなかった。欧米先進自動車メーカーにとっては、取るに足らない存在だったのだ。さらに1965年から外国車の輸入も解禁が控えていた。また本格的なスポーツカーをもっていなかったこと、低調だった第2回日本グランプリの成績など様々な事情が重なり、トヨタはその技術力を世界に知らしめる必要があった。そこで世界一級の性能をもつスポーツカーの開発プロジェクトが始動したのだ。その心臓であるエンジンも、当時の生産車とはレベルの違う高性能なものが必要とされたのだ。

白羽の矢がたったのが、当時すでにバイク用の高性能エンジン開発で定評があり、スポーツカーの研究開発にも乗り出していたヤマハ発動機である。後年、名機と言われるトヨタDOHCの多くにヤマハは関与するが、そのコラボレーションがはじまったのがこのスポーツエンジンの開発からだ。

高性能エンジンの開発ベースとしてヤマハが選んだのが、当時トヨタの最高峰かつ最新鋭の直6エンジンだったM型だった。1965年10月に2代目クラウン(MS41型)に追加搭載されたこの2L直6SOHCエンジンは、1998ccの排気量で半球形の燃焼室をもつ。のちにSUツインキャブを装着して125psを発生するM-B型(ハイオク仕様)も追加されたが、当初はシングルキャブの105psでスタートした。

画像: 2代目クラウンに追加設定された2L直6SOHCのM型エンジン搭載車(写真はハイパワーバージョンのM-B型エンジン搭載車)

2代目クラウンに追加設定された2L直6SOHCのM型エンジン搭載車(写真はハイパワーバージョンのM-B型エンジン搭載車)

ともあれ、この最新鋭高級車用エンジンの鋳鉄製ブロックをベースに、ヤマハはトヨタと協力して初の量産乗用車用DOHCエンジンの設計に取り掛かった。ヘッドまわりには当時はまだレーシングカー専用の特殊なメカニズムと思われていたDOHCを採用。すでにバイク用DOHCエンジンでは十分な知見を得ていたおり、1960年代前半には日産から委託されて1.6Lの乗用車用DOHCエンジンの試作を行った経験はあったが、量産車用のDOHCエンジンの開発はヤマハにとっても初めての経験ではあった。

画像: 3M型のベースとなったM型エンジン(写真はSUツインキャブを採用したMーB型)。ヘッドはアルミだ。

3M型のベースとなったM型エンジン(写真はSUツインキャブを採用したMーB型)。ヘッドはアルミだ。

そもそもクランクシャフトが7ベアリング支持だったM型は高回転化にも都合が良かった。ボア×ストローク(75×75mm)はそのままに、圧縮比はベースのM型で採用された8.8から8.6へと下げられた。また当時の欧州製スポーツカーでしばしば見られた、バルブリフターホールに鋳鉄製のリフタースリーブを鋳込んで摩耗や焼き付きに対処するなど手間のかかる加工が施される。

ヤマハとトヨタのコラボレーションで完成したエンジンは最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kgm/5000rpmを発生。当時としては並外れた高性能エンジンだった。実際、トヨタ2000GTは最高速度220㎞/h(巡航速度205㎞/h)、0→400m加速は15.9秒と世界トップレベルの性能を実現したのだ。

画像: 完成したDOHCエンジンは3M型と名付けられた。最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kgm/5000rpmを発生。当時としては並外れた高性能エンジンだった。

完成したDOHCエンジンは3M型と名付けられた。最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kgm/5000rpmを発生。当時としては並外れた高性能エンジンだった。

この共同作業がうまくいったことに端を発し、以後、R型(トヨタ1600GT)、2T-G型(セリカ、レビン/トレノほか多数)を始め、トヨタがエンジンの基礎開発をしてそれをヤマハがDOHC化する開発ノウハウが確立していった。ちなみにベースとなったM型エンジンはその後も進化を続け、1990年代前半までトヨタ高級車用エンジンとして生きながらえていく。

337台しか生産されなかった伝説のスポーツカー

画像: 1965年に開催された東京モーターショーで初公開されてから約1年半後の1967年5月、ついにトヨタ2000GTの市販が開始された。

1965年に開催された東京モーターショーで初公開されてから約1年半後の1967年5月、ついにトヨタ2000GTの市販が開始された。

トヨタ2000GTについても触れておく。トヨタ社内でトヨタ2000GTの開発が検討され始めたのは1963年5月の日本グランプリの直後だったという。実際に開発プロジェクトがスタートしたのは翌1964年5月だった。シャシやボディはこのプロジェトが始動した段階ですでにかなりのレベルに達していたが、当時のトヨタはカローラやコロナマークIIほか大型プロジェクトが目白押しで、2000GTの開発に割ける人員も生産余力もなかった。そこでエンジンの開発や試作・生産に至る領域でヤマハ発動機との協業という道を選ぶ。

試作第1号車の完成は1965年8月と驚異的なスピードだったが、これは車体の設計やデザインなどすでにトヨタ社内でかなりのレベルまで進行していたことが伺われる。同年10月の東京モーターショーにプロトタイプを出品。美しい2シーター・ファストバックに、世界中が溜息をついた。

ショーで人気をさらったトヨタ2000GTはその後も入念な走行テストを繰り返し、1966年5月に開催された第3回日本グランプリで、プロトタイプ・レーシングカーのプリンスR380に1位と2位は奪われるものの、無給油で3位に入賞。続く6月の鈴鹿1000㎞レースでは2台が出場し、総合1位、2位を占めた。さらに10月には茨城県・谷田部の高速試験場で高速スピードトライアルに挑戦。昼夜ぶっとおしの78時間連続高速走行で3つの世界新記録と13のクラス別国際新記録を樹立して高速耐久性を実証した。

東京モーターショーでのデビューから約1年半後の1967年5月、ついにトヨタ2000GTの市販が開始された。価格は238万5000円。大卒初任給の相場が2万円強だった時代のことである。これには日本中が驚いたが、トヨタとヤマハが持てる技術をすべて注ぎ込み、ほとんど手作りとも言えるだけあって、この高価格でも採算ベースには乗らなかった。

トヨタ2000GTは、1970年8月に最後のクルマがラインオフするまで試作車を含めて337台が生産された。なお北米向けに廉価版として2.3LのSOHCエンジン(2M-B型)を搭した左ハンドルモデル(MF12L)も企画されたが、9台(7台説も有り)が試作されただけで市販はされなかった。

<トヨタ2000GT主要諸元>
●全長×全幅×全高:4175×1600×1160mm
●ホイールベース:2330mm
●重量:1120kg
●エンジン型式・種類:3M型・直6DOHC
●排気量:1988cc
●最高出力:150ps/6600rpm
●最大トルク:18.0kgm/5000rpm
●トランスミッション:5速MT
●タイヤサイズ:165HR15
●新車当時価格:238万5000円

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