マツダ ロードスターの「伝説の開発主査」こと貴島孝雄氏が、現役時代に出会った記憶に残る人物を紹介する連載企画。今回の交友録は、ル・マン24時間レースで大活躍した、寺田陽次郎氏が登場する。現在も公私共に親交が深い、強固な信頼関係を振り返る。

貴島氏がモータースポーツにたずさわる原点となった寺田氏

画像: 言わずと知れた「ミスタール・マン」、オートエクゼ代表取締役社長の寺田陽次郎氏。1974年から挑戦し続け、3回のクラス優勝を含め29回の出場数を誇る。

言わずと知れた「ミスタール・マン」、オートエクゼ代表取締役社長の寺田陽次郎氏。1974年から挑戦し続け、3回のクラス優勝を含め29回の出場数を誇る。

貴島さんが寺田さんと初めて会ったのは、1979年3月の富士300キログランチャンピオンレースだった。当時マツダの社内にはモータースポーツ専門の部署がなく、量産車の開発をしながら、モータースポーツの活動もしていたそうだ。

「私はグランチャンピオンレースカーの足まわり担当として、頻繁にサーキットに行きました。当時は、夜行列車に乗って静岡の富士スピードウェイまで行きました。もちろんロータリーで走っていたのですが、とにかくBMWが速くて、ずいぶん悔しい思いをしました」と貴島さん。

「富士グランチャンピオンレース」は、1971~1989年まで行われたシリーズ戦。当時、マツダのワークスドライバーだった寺田さんと足まわりの設計者だった貴島さんは、グランチャンピオンレースを通じて切磋琢磨していくことになる。マツダは13Bロータリー(1977年初優勝)で戦っていた。さらにル・マンにおいても、一緒に闘うことになった。

RX-7(FD3S)の発売時、伊豆にあるサイクルスポーツセンターで行われた試乗会には、寺田さんはもちろん、前回紹介したポール・フレールさんも参加していた。

「この時は箱根の温泉に泊まって、マツダ車の評価や、さまざまなアドバイスをもらいました。レースで得た経験がRX-7の開発に大いに役にたちました。

当時、貴島さんはオートエクゼのスーパーバイザーも担っており、東京都中央区の勝どき(現在は江東区枝川に移転)によく足を運んだそうだ。寺田さんがレースを引退されてからのほうが、マツダファンフェスタなどで顔をあわせる機会は多いと話す。互いにマツダを退職した後も、より強固なタッグを組むことになるとは思いもしなかっただろう。

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