セナ・プロ対決という言葉、すでに知らない人も多くなっているかもしれないが、現在40歳代以上の人は懐かしいものじゃないだろうか? クルマ全般の歴史に詳しい遠藤一満氏が答える。

アイルトン・セナとアラン・プロスト。対称的な2人

日本でセナ・プロ対決と騒がれたのは、1988年にアラン・プロストを擁するマクラーレンに、アイルトン・セナが加入してから。当時、1985/1986年連続ドライバーズチャンピオンを獲得していたプロストは、当然チームのファーストドライバー。しかしようやく世界一を争えるマシンのシートを獲得したセナは、そんなことお構いなし。前走車はブチ抜く鬼神の走りを見せていた

理論的な走りでプロフェッサーの異名を持つプロストと、圧倒的な速さを見せつける天才セナ。私生活ではお互い認めあっていたもののどちらも勝負師。両雄並び立たずのたとえ通り、ふたりはチーム内で熾烈なワンツー争いを繰り広げていく。

そして運命の第13戦ポルトガルGP。プロストの幅寄せに怒ったセナがやり返した。これがふたりの関係に亀裂が入った原因と言われている。結局1988年は全16戦中8戦を制したセナが、自身初のチャンピオンに輝いた。

1989/1990日本GP、2年連続スズカで事件は起きた

日本では1987年からフジテレビが全戦放映権を獲得。また中嶋悟のフル参戦に合わせエンジン供給するホンダも煽ったことでF1が注目され始めていた。これを決定づけたのも1988年だ。中嶋応援団もTVでプロストの速さを目の当たりにし、それに勝るセナの華麗なテクニックに酔いしれた。とくに27歳の若きヒーロー、セナの人気は女性を巻き込んだブームにもなっていった。

そして1989年の日本GP。プロストはここを凌げばチャンピオン確定。逆に優勝しなければ絶望となるセナは、47周目のシケインで仕掛けた。が、接触して両車ストップ。ここでプロストはリタイアしたが、走り続けてトップでゴールしたセナも結局失格となり、プロストのチャンピオンが確定した。

画像: 1989年F1第15戦日本GP。マクラーレンホンダMP4/5を駆るA.プロストとA.セナは、残り6周となった47周目にカシオトライアングル(シケイン)で接触。プロストはリタイヤ、セナはコース復帰しトップでチェッカーを受けたが失格。プロストの年間王者が確定した(写真は前がプロスト、後ろがセナ)。

1989年F1第15戦日本GP。マクラーレンホンダMP4/5を駆るA.プロストとA.セナは、残り6周となった47周目にカシオトライアングル(シケイン)で接触。プロストはリタイヤ、セナはコース復帰しトップでチェッカーを受けたが失格。プロストの年間王者が確定した(写真は前がプロスト、後ろがセナ)。

翌1990年シーズン、第15戦日本GP。昨年とは逆にフェラーリに移籍したプロストには、優勝しかチャンスは残されていない。セナはここでプロストの優勝を阻止すればチャンピオンが決まる。ファンは固唾をのんで見守った。運命のスタート。直後の第1コーナーで好スタートを決めたプロストの後部にセナが接触。2台は絡み合ったままコースアウトし、わずか8秒でセナのタイトルが確定した。

同じコースで、同じドライバーが、どちらかが優勝しなければチャンピオンが得られない状況で、接触リタイアで終わるという、ありえない結末を迎えたのがセナ・プロ対決だった。

プロスト引退、セナ帰らぬ人となり幕を閉じる。

この後、1993年シーズンでプロストは引退。セナは94年の第3戦サンマリノGPでクラッシュし、死亡。世界中のファンに衝撃を与えた。

This article is a sponsored article by
''.