第一京浜は、明治一號國道だった
東京と横浜を結ぶ道路を総称して京浜道路と呼ぶ。一般には第一京浜国道、第二京浜国道、第三京浜道路の3路線を意味し、名称のとおり第一から順に整備されていった。第一京浜国道は江戸時代の五街道のひとつである東海道の道程がほぼそのまま使用されているが、「江戸時代から整備され始めた」と言ったら言い過ぎだろうか。現在の道路法では国道15号にあたるのだが、一般的な呼び名は「一国(いちこく)」だ。
その呼び名の由来は明治時代にさかのぼる。1885(明治18)年に明治政府は国道指定を行い、その一号に旧東海道が指定されて「明治一號國道」(號は号の、國は国の旧字体)となったからだ。明治一號國道は、元来東海道であったため、日本橋を起点に横浜港を終点としていた。現代の第一京浜国道を含む国道15号は明治一號國道のことで、東京・日本橋に端を発し、横浜市神奈川区の青木通交差点までの29.6km区間を結ぶ。
このうち日本橋から永代通りの日本橋交差点までの0.2kmは国道1号線と重なるため、カーナビやナビアプリでは国道1号と表示されるものの、実際は国道15号と重複する。また日本橋から新橋までは中央通り、新橋・横浜間が第一京浜と呼ばれる。
つまり日本橋から横浜の青木通交差点までに限って大雑把に言えば、明治一號國道/第一京浜国道/一国(いちこく)/国道15号はほぼ同じ意味となる。ちなみに、「いちこく」と呼ばれる理由は【第「一」京浜「国」道】から来ているという説もある。
第二京浜は関東大震災の復興事業だった
では国道1号線はどの道なのかといえば、第二京浜国道だ。厳密には国道1号線のうち、東京都品川の西五反田一丁目交差点から、前述した横浜の青木通交差点までの区間の通称を「第二京浜」という。現地での通称は「二国(にこく)」だ。
では第二京浜国道も第一京浜国道と同様、明治二號國道だったのかといえば、そうではない。
第二京浜国道は関東大震災(1923年・大正12年)の復興事業のひとつとして、1927(昭和2)年に計画。1934(昭和9)年に明治一號國道のバイパス道として整備され、当時の「三六號國道」に指定された。第一京浜(明治一號國道)のバイパス道路という目的と、【第「二」京浜「国」道】という名称から「二国(にこく)」と呼ばれるようになったと推察される。
ちなみに、明治二號國道は旧東京市から鹿児島県を結ぶ路線のことで、第二京浜とは縁もゆかりもない。
明治時代に一號國道(第一京浜国道)と三六號國道(第二京浜国道)が、現在の国道15号と国道1号の名称になったのは1952(昭和27)年の現行道路法が施行されてからだ。現行の道路法で国道1号は、東京・日本橋から大阪・梅田新道までとし、その経路に第二京浜国道が加えられた。そして日本橋から横浜港を結ぶ旧一號線の第一京浜国道は国道15号となったのだ。
第三京浜はもともと電車用地だった
第三京浜道路は、東京都世田谷区の玉川ICと神奈川県横浜市神奈川区の保土ヶ谷ICを結ぶ第三の京浜道路で、シリーズ初の自動車専用道路にして有料道路だ。現地では「三京(さんけい)」とも呼ばれており、さすがに「三国(さんこく)」ではない。
この道路は1929(昭和4)年に鎌倉急行電鉄が計画した渋谷・鎌倉間の鉄道計画を下敷きとし、1961(昭和36)年に日本道路公団(現在の東日本高速道路/NEXCO東日本)が第三京浜道路事業許可を取得し、1965(昭和40)年に全面開通した。1993(平成5)年には一部が国道466号に指定された。
第四京浜は「京浜」道路ではない
一般に京浜道路は3路線だが、実は計画段階で第四京浜道路も存在した。これを計画したのは神奈川県と横浜市で、1963(昭和38)年に起草された横浜市高速道路計画に第四京浜道路案が記載されている。起点は横浜市港北区、終点は横浜市戸塚区の計画で、横浜市内を縦断して結ぶ路線だ。東京・横浜間の道路でないので、「京浜」道路と名付けて良いのか、そもそも疑問が残るが・・・。(文:猪俣義久)