「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:SAN’S/モーターマガジン社)*タイトル写真は1983年11月6日全日本F2選手権Rd8JAF鈴鹿グランプリ。

ホンダのF2参入と最大のライバル・中嶋の壁

GCでの活躍の一方で、国内トップフォーミュラのF2での星野は、1979年から5年連続でシリーズ2位という、押しも押されもせぬトップドライバーとしては悔しさが残る成績だった。

既に触れたように、年を追うごとに多くの強力なドライバーがF2へと参加するようになり、それに合わせてマシンやエンジン、タイヤも急速に進化。79年には松本恵二、80年には長谷見昌弘がF2タイトルを奪っている。いかに星野といえども、その腕一本では簡単には勝てないまでに、全日本F2がレベルアップしたということだ。

さらに80年には、レース活動を休止していたホンダが、V6エンジンを開発してヨーロッパF2への挑戦を開始。そして日本でも81年から、中嶋 悟にそのエンジンが供給されたこともその大きな理由だろう。中嶋はヨーロッパを席巻した強力なエンジンによって、81〜82年にF2を連覇、才能を大きく開花させる。

中嶋がホンダを使うようになって以降の星野は、パワーで劣るBMWエンジンで中嶋を追うという、歯がゆい展開の連続だった。

そんな最中にも、80年には自らのブランドとしてインパルを創業し、83年には自らホシノレーシングを立ち上げるなど、レース活動以外にも多忙な日々を送ることになるが、レースへの執念はますます強くなっていく。

画像: 81年にホンダがF2に参入すると、BMWユーザーの星野は苦闘を強いられ、中嶋 ( 右)、G. リース(中)らと激闘を繰り広げる(1983年11月6日全日本F2選手権Rd8JAF鈴鹿グランプリ)。

81年にホンダがF2に参入すると、BMWユーザーの星野は苦闘を強いられ、中嶋 ( 右)、G. リース(中)らと激闘を繰り広げる(1983年11月6日全日本F2選手権Rd8JAF鈴鹿グランプリ)。

待望のホンダエンジンを手に入れるが・・・

全日本F2では未勝利だった83年だが、78年以来となるヨーロッパF2へも参戦。ドニトンパークでの1戦のみだったが、予選8位・決勝4位という結果を残して雪辱を果たす。

そして翌84年、ホンダユーザーの中嶋とS・ヨハンソンに真っ向勝負を挑み、2人に続くシリーズ3位ながら、第5戦・鈴鹿で勝利を挙げるなど、非力なBMWエンジンで肉薄する走りを見せた。

85年になって、ようやく星野も待望のホンダエンジンを手にすることになる。しかし、中嶋と同じエンジンで走れることになったこの年は、トラブルが多発してポイントを失い、1勝は記録したがシリーズ4位、対して中嶋は5勝でチャンピオンを獲得した。

86年は3勝と星野らしい速さを見せたが、やはりポイントの取りこぼしが多く、シリーズ2位。1勝のみだが全戦でポイントを獲得した中嶋に、全日本F2での3連覇を許してしまう。

そんな中嶋は87年からF1へステップアップしたため、70年代から続いた2人の直接対決はこれが最後となってしまった。全日本F2もこの年限りで終了、星野の78年以来となるトップフォーミュラでの戴冠は、87年からのF3000へと持ち越されることになる。(次回に続く)

画像: ホンダエンジンを手に入れた2年目のシーズン。最終戦・鈴鹿は予選 2 位、決勝も優勝で鈴鹿F2チャンピオンを獲得し、全日本選手権ではシリーズ2 位となる(1986年11月2日鈴鹿F2選手権・最終戦)。

ホンダエンジンを手に入れた2年目のシーズン。最終戦・鈴鹿は予選 2 位、決勝も優勝で鈴鹿F2チャンピオンを獲得し、全日本選手権ではシリーズ2 位となる(1986年11月2日鈴鹿F2選手権・最終戦)。

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