「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:モーターマガジン社)*タイトル写真は1985年10月6日世界耐久選手権Rd9第3回WECジャパン。

ポルシェ956の前に星野も苦戦を強いられる

1982年からのWEC(世界耐久選手権)は、グループCマシンを中心に戦われたが、その主役はポルシェ956だった。その完成度は、デビュー2戦目のル・マン24時間での初勝利を含め、合計4勝を記録してチャンピオンを獲得したことでも分かる。翌83年からは市販され、多くのプライベートチームがポルシェ956でエントリー、シリーズは盛り上がっていく。

82年の10月には富士スピードウェイでWECジャパンが開催され、ここで強烈な速さを見せて勝利したポルシェ956が、国内のレース関係者に大きなインパクトを与える。そして83年には全日本耐久選手権がスタートして、WECジャパンを含む全3戦が行われた。

トラストが日本に持ち込んだポルシェ956をはじめ、トムスC・トヨタ、童夢RC・DFL、マツダ717C、MCSグッピーといった国産グループCも参戦。日産もシルエットフォーミュラ用のLZ20Bエンジンを搭載したイギリス製のマーチ83G、国産のLM03C、スカイライン・ターボCといった3台のマシンを製作した。

しかし、星野が乗ったマーチ・日産を含め、国産Cカーは速さ、信頼性、燃費など、あらゆる面でポルシェの敵ではなく、トラスト・ポルシェが初代チャンピオンを獲得。84年にはポルシェ956の数は増える一方で、日産のCカーの戦闘力は一向に上がらない。星野がポイントすら獲得できないといえば、そのレベルが分かるだろう。

画像: 欧州勢が棄権して国内勢のみとなり、レースも 227 周から 62周に短縮される中、唯一気を吐いたのが星野の駆るマーチ85G だった。2位以下を全て周回遅れにするという驚異的な速さで周回を重ね、欧州勢の度肝を抜いた(1985年10月6日世界選手権Rd9第3回WECジャパン)。

欧州勢が棄権して国内勢のみとなり、レースも 227 周から 62周に短縮される中、唯一気を吐いたのが星野の駆るマーチ85G だった。2位以下を全て周回遅れにするという驚異的な速さで周回を重ね、欧州勢の度肝を抜いた(1985年10月6日世界選手権Rd9第3回WECジャパン)。

85年のWECジャパンで見せた星野の気合

そんな状況を打開したのが、84年に日産のモータースポーツを担うために誕生したニスモだ。その初代社長の難波靖治による鶴の一声で、新世代のV6エンジン・VG30をベースに、アメリカのエレクトラモーティブが、IMSAシリーズ用に開発していた強力な3リッターターボエンジンを導入。これをマーチとローラの新しいシャシーに搭載したニューマシンを85年の途中から投入した。

星野のマーチ85G・VG30は、7月の第3戦・富士500マイルでデビュー。ポテンシャルは高かったが、全くのニューマシンだけにリタイア、続く鈴鹿1000キロもリタイア。

しかし、10月に富士で行なわれたWECジャパンでようやく本領を発揮する。ワークス以下多数のポルシェ956勢、そしてランチア、ジャガーなどを相手に、星野が予選3位を奪取して速さを見せた。

そして翌日の決勝は豪雨となり、レースは短縮。さらに悪コンディションの中、海外勢がレースを棄権したとはいえ、1人だけ異次元のハイペースで独走した星野が総合優勝! 日本人として初めて4輪の世界選手権での総合優勝という快挙を成し遂げる。

この勝利はニスモのグループC開発の後押しとなり、翌年からのル・マン挑戦を実現させたターニングポイントともなったのだった。(次回に続く)

画像: 「決行か、中止か、もっと早く決めるべきだ。レース前のドライバーの緊張感がどれほどのものか、わかって欲しい」。記者会見の席でも怒りは収まらなかった。コドライバーは松本恵二と萩原光だったが、星野が怒りの独走を決めたため、彼らはステアリングを握ることはなかった(1985年10月6日世界耐久選手権Rd9第3回WECジャパン)。

「決行か、中止か、もっと早く決めるべきだ。レース前のドライバーの緊張感がどれほどのものか、わかって欲しい」。記者会見の席でも怒りは収まらなかった。コドライバーは松本恵二と萩原光だったが、星野が怒りの独走を決めたため、彼らはステアリングを握ることはなかった(1985年10月6日世界耐久選手権Rd9第3回WECジャパン)。

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