夜が明けた6月23日。この日はTGRにとって決して忘れることのできない日だった
6月20日-21日にわたって行われた予選は、突然の雷雨に見舞われたものの、その後は快晴が続く中で行われ、ほぼ市販車の状態で出場したGRスープラは99番手のタイムをマークした。
158台がグリッドに並んだ決勝レースは、22日土曜日午後3時半にスタート。GRスープラは「モリゾウ」がスタートドライバーを務めた。出走156台がひしめく中、GRスープラは順調に周回を重ね、じわじわと順位を上げていく。しかし、暑さがドライバーの集中力を奪うと同時にクルマを容赦なく痛めつけ、コースのあちこちでクラッシュが続出、レースはサバイバル戦の様相となっていく。
スタートから約8時間、快調に走行していたGRスープラもトップを走行していた4号車メルセデスAMG GT3と接触。不安を抱えながらの走行となったが、夜が明けてからも快調に走行を続け、朝10時には「モリゾウ」が3回目のハンドルを握った。
「モリゾウ」は24時間におよぶ決勝レースで結局4スティントを担当、チーム総代表である「モリゾウ」は最後のスティントでもドライブし、クラス3位(総合41位)でチェッカーを受けている。
豊田章男チーム総代表のレース後のコメント
まず最初に皆さん、ありがとうございました。今日23日は、成瀬さんの命日でありました。
私が午前中、10時から乗るということを聞きまして、実は予定では9時でした。それが10時になったという意味を自分なりに考えますと、ちょうど6月23日の現地時間10時にくらいに事故が起きて、亡くなった時間だったんですね。それで私が成瀬さんの事故の時間にハンドルを握ることになるんだということで、非常に緊張をいたしました。このスープラのカムバック、そして、ニュル13年目の挑戦。いろんな思いが、その3回目のスティントで頭に入って、運転どころではなかったというのが正直な感想でありました。
ただ、今日、皆さんが話してくれたことを成瀬さんは聞いてます。成瀬さんが亡くなった時、葬儀に行きました。そこでやりたいと思うやつだけでいい、ついてきてくれということで続いてきたGR活動です。これが多くの方に応援され、もっといいクルマづくり、クルマづくりの人材育成のど真ん中に、この活動が入ってきたというふうに思います。
本当にここまで支えてくれた皆さんに感謝申し上げるとともに、私は、この話になると涙ぐむんですね。なぜかとクルマの中で考えてみました。多分、悔しさです。
13年前、トヨタも名乗れず、このニュルで、成瀬さんとほぼ2人でプライベーターよりもプライベーターらしい、本当に手づくりのチームでここに来ました。その時の誰からも応援されない悔しさ、何をやってもまともに見てくれない悔しさ、何をやっても、ハスに構えて見られてしまう悔しさ。そして生産中止になったスープラで練習をしてる悔しさ。全ての悔しさが、私自身その成瀬さんが亡くなった6月23日に社長に就任した時からの、ずっと私のブレない軸でもあります。
ですから、私がもっといいクルマをつくろうよということだけしか、社長になって言わないのは、全てその悔しさであります。そして今日も、悔し涙を流した。その悔しさは絶対に自分を強くするし、この活動の目的である「良い仲間」を作るし、そしてもっといいクルマをつくると思います。そんな思いを持って、冒頭「ありがとうございました」と皆さんに申し上げました。
本来はこのレース、(ずっとスープラの開発を担当してきた)矢吹が出るレースだったと思います。それをスタート、フィニッシュ含めた4スティントを担当させていただきましたが、こういう日でなければ、「矢吹お前乗れよ」と言ってたと思います。私自身も、この日、スープラ、ニュルというもので成瀬さんから、「いやいやお前乗れ、俺と一緒に乗ろう」と言ってくれたんだと思います。
今日の話は間違いなく、成瀬さんは聞いてくれているし、この天気も、成瀬さんだったんだと思います。ドライバーとしては足を引っ張りましたが、他のプロたちがカバーしてくれました。ありがとうございました。
「もっといいクルマづくり」を追い求め、「GAZOO Racing」を立ち上げた豊田章男社長(当時は副社長)がニュルブルクリンクを始めたのが2001年。当時は予算もつかず、社内で認められていなかった党から驚きだ。「モリゾウ」の運転の師匠であり、TGRの原点となったGAZOO Racingをともに立ち上げたトヨタ自動車のマスタードライバー、故・成瀬弘氏がニュルブルクリンク近郊で急逝した日が、9年前の6月23日だった。