日産はスカイラインというレースで培ったブランドを持っている。しかし、1985 年から始まったグループAレースでR30スカイラインRSターボは、外国車のトップグループはもちろん、スタリオン、さらには格下のシビックなどに遅れをとることもあり、日産ファンをやきもきさせた。そんな中で登場したのがHR31スカイラインGTS-Rだ。スカイラインGTS-Rが登場して、日産が本気の姿勢を見せたとも言える。

スカイラインGTS-RはグループAレース制覇のために投入される

画像: 1988年インターテックでリーボックスカイライン(長谷見昌弘)。予選7位、決勝リタイアという結果だった。

1988年インターテックでリーボックスカイライン(長谷見昌弘)。予選7位、決勝リタイアという結果だった。

1985年から全日本ツーリングカー選手権を戦ったスカイラインRSターボ。1986年は鈴木亜久里がチャンピオンをとったが、インターTECではボルボ240ターボに歯が立たず。日産としてもここままで終わらせるわけにはいかないという状況の中で登場したのが、グループAのホモロゲーションモデルHR31スカイラインGTS-Rだった。

パワーユニットはRB20DET-R型2L直6DOHCターボ。ノーマルスペックは最高出力210ps/6400rpm、最大トルク25.0kgm/4800rpmというもの。ステンレス製の等長エキゾーストマニホールドやギャレットの大径のタービンが採用されていた。これを元にグループA仕様では、400ps/42kgm程度までチューニングされていた。

画像: 日産の威信を賭けて登場したとも言えるスカイラインGTS-R。HICAS、4ABSなど当時としては先進的な技術の取り組みも見せた。

日産の威信を賭けて登場したとも言えるスカイラインGTS-R。HICAS、4ABSなど当時としては先進的な技術の取り組みも見せた。

グループAの定石で、サスペンションはフロントストラット形式、リアセミトレーリングアーム形式を踏襲するが、レースではキャンセルされそうな4輪操舵システムのHICASを採用したのも特徴的だ。ショックアブソーバーはKYBの減衰力8段調整式を使った。

ブレーキはAP製のベンチレーテッドディスクが採用され、フロント13インチ/リア12インチという組み合わせ。4輪ABSも装着されていた。ホイールサイズは9J×17、タイヤサイズはフロントが240/625R17、リアが240/655R17というもので大パワーを受け止めた。

HR31スカイラインGTS-Rは1987年8月に800台限定で発売され、サーキットに姿を見せたのは1987年のインターTECだ。ここでは星野一義/A オロフソンというコンビで、予選はフォードシエラ、スープラに次ぐ5位。決勝はトラブルに見舞われ15位という結果だった。

画像: 1988年のインターテックでは、リコーニッサンスカイラインGTS-Rがポールポジション。フォードシエラに一矢報いるが、決勝ではリタイア。

1988年のインターテックでは、リコーニッサンスカイラインGTS-Rがポールポジション。フォードシエラに一矢報いるが、決勝ではリタイア。

1988年は全日本ツーリングカー選手権で2勝を挙げる活躍を見せる。注目のインターTECでは、A オロフソン/鈴木亜久里のコンビがフォードシエラを抑えてポールポジションを獲得したが、完走はならずという結果に終わる。

1989年にスカイラインGTS-Rは6戦中4勝(3勝:長谷見昌弘/1勝:星野一義)という成績を残し、シリーズチャンピオンを手中にした。しかし、インターTECではまたしてもフォードシエラに苦杯を喫することになる。スカイラインが真の王者として君臨するには、もう一世代待つ必要があった。

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