グラチャンとは、富士グランチャンピオンシリーズの略
1963年に始まった日本グランプリが火をつけた日本のモータースポーツは、60年代終盤にはトヨタ対日産+ポルシェ使いの滝レーシングという三つ巴の争いで絶頂期を迎えていた。
ところが70年、トヨタと日産の両巨頭が排ガス対応を理由に相次いでワークス活動からの撤退を表明。そのあおりを食って70年の日本GPは中止に追い込まれてしまう。
ドル箱レースを失い、生き残りをかけて新たなレース立案に迫られた富士スピードウェイが「メーカーは撤退してもモータースポーツファンがいなくなったわけではない。ならばトヨタと日産抜きで成立するレースをやろう」と企画したのが「富士グランチャンピオンシリーズ(通称グラチャン)」だった。
メーカー(ワークス)に頼らず、ドライバー(プライベーター)がスポンサーを募りチーム運営する、いわゆる欧米型レースを初めて日本で実現したという意味で、日本のモータースポーツ史に大きな功績を残したシリーズ戦だったと言っていい。
初戦は1971年4月の「富士300kmレース」
初戦は1971年4月の「富士300kmレース」。出走台数を増やすため、7LのローラT160やマクラーレンM12、ポルシェ908や910などグループ7/6マシンとグループ4のフェアレディZが混走する形で始まった。
結果は田中健二郎が駆るマクラーレンM12が優勝し、71年のドライバーズチャンピオンには同じマクラーレンM12に乗る酒井正が輝くが、それ以上に注目されたのがポルシェ908Ⅱの風戸裕、シェブロンB19の田中弘、ローラT212の高原敬武など、若手の台頭だった。
とくに2LプロトタイプのシェブロンB19とローラT212は、ポルシェに比べると圧倒的に安価なのに互角の走りを見せ、後のマーチ73Sなどと共にプライベーター参入のハードルを下げたマシンとして記憶に残る。
グラチャンはその後、中野雅晴(73年)、風戸(74年)ら20代前半のドライバーの事故死などを乗り越え、70~80年代を代表するレースイベントに成長していく。78年には星野一義、79年には中島悟がシリーズチャンピオンに輝くなど、若手の登竜門としても注目された。
しかし、87年からF1日本グランプリが毎年開催され、これが世界最高峰のバトルを目の当たりにしたファンのグラチャン離れの引き鉄となった。そして長年愛されてきたグラチャンシリーズは89年でその幕を閉じることになったのである。