「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:モーターマガジン社)*タイトル写真は、1996年4月28日 フォーミュラ・ニッポンRd1鈴鹿。

国内外の若手の台頭の中で苦闘を強いられる星野

1993年の全日本F3000で、星野の闘争心に再び火をつけたE・アーバインは、その速さが認められ、94年にはF1にステップアップ、日本を去ってしまった。またしても最大のライバルを失い、日本に取り残された星野の94年シーズンは、アーバインからチャンピオンをもぎ取った強さは影を潜め、再び長いスランプに陥る。

最高位は第9戦・富士の4位と、勝ち星を挙げるどころか表彰台にすら絡めず、M・アピチェラ、R・チーバー、A・G・スコットの外国人ドライバー3人に、シーズンのトップ3独占を許してしまう。

さらに全10戦の半分、5回のリタイアと安定感も欠き、シリーズ8位。それぞれ1勝ずつを記録した若手の黒澤琢弥、服部尚貴にもランキングで追い越される。9月に開催された非選手権戦の十勝では勝利したものの、失意のうちにシーズンを終える。

翌95年は、どん底を脱出しシリーズ4位と成績は上向く。しかし、チャンピオンを獲得した鈴木利男や、この年急速に台頭し3勝をマークした新星・高木虎之介らを相手に、ついに勝利を挙げることはできなかった。

画像: レース序盤、急成長著しい虎之介が後方に迫り、シケインで先を行く星野を強引に抜くも、その後、中野信次と接触してリタイア。星野は難なく開幕戦を勝利で飾った(1996年4月28日 フォーミュラ・ニッポンRd1 鈴鹿)。

レース序盤、急成長著しい虎之介が後方に迫り、シケインで先を行く星野を強引に抜くも、その後、中野信次と接触してリタイア。星野は難なく開幕戦を勝利で飾った(1996年4月28日 フォーミュラ・ニッポンRd1 鈴鹿)。

すべてを賭けるも、あまりに残酷な最終戦・富士の展開

全日本F3000からフォーミュラ・ニッポンに改称された96年シーズンは、虎之介の他にも、服部尚貴、中野信治、金石勝智、さらに95年ドイツF3チャンピオンのR・シューマッハ、同2位のN・フォンタナと、国内外から有力な若手ドライバーが揃う空前の激戦。

しかしこの年49歳となる星野は、開幕戦の鈴鹿で、前年の勢いそのままにPPを獲得した虎之介に続き、予選2位を獲得。決勝も虎之介と激しいバトルを展開し、虎之介が自滅リタイアする中、トップでチェッカーを受けて、93年の第10戦以来、久々の勝利を挙げて復活の狼煙を上げる。

第2戦以降も粘り強さを見せ、勝利こそ挙げられないが、若いライバルたちを相手に着実にポイントを積み重ねていった。

最終戦の富士を前にチャンピオンの権利を残していたのは、3勝でシリーズトップのR・シューマッハと、これを2勝を挙げ僅差で追う服部、そして星野の3人。星野は自力タイトルの可能性こそないものの、予選から激走を見せ、このシーズン初めてのPPを奪って見せる。

雨の中の決勝でも、最後の可能性に賭けて集中力を極限まで高め、会心のスタートを決めてレースをリード。そのままトップを独走、奇跡が起こるのか…と、そこにいた誰もが思った。

しかし、星野は4ラップ目でピットに滑り込む。無情にも、クラッチが音を上げてしまったのだ。マシンを降りた星野が、悔しさのあまりヘルメットを床に叩きつけてしまうほど、それはあまりにも残酷な展開だった…。

最終的にチャンピオンはR・シューマッハのものとなり、彼はそのまま翌年F1にデビューする。またしても星野は、日本からF1ドライバーを送り出す形になった。

そして翌97年春のシーズン開幕前、星野はトップフォーミュラからの引退を発表。73年のFJ1300から23年、ひたすら速さを追い求めたフォーミュラでのレース生活に、ついにピリオドが打たれた。
(次回に続く)

画像: 予選後の記者会見では虎之介に「早く海外でもどこでも行っちゃってよ(笑)」と半ば本気で語る星野。フォーミュラ・ニッポン初年度は親子ほど歳が違う、世代を超えた闘いの幕開けとなった(1996年4月28日 フォーミュラ・ニッポン Rd1 鈴鹿)。

予選後の記者会見では虎之介に「早く海外でもどこでも行っちゃってよ(笑)」と半ば本気で語る星野。フォーミュラ・ニッポン初年度は親子ほど歳が違う、世代を超えた闘いの幕開けとなった(1996年4月28日 フォーミュラ・ニッポン Rd1 鈴鹿)。

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