幻に終わったコンパクトモデル、W122
第2次大戦後も、メルセデス・ベンツは小型車をつくる試みを続けた。ただ、なかなか市販化には結びつかず、むしろミディアムクラス(現在のEクラスに相当する)以下のモデルが空白になってしまう。
終戦後の1946年には、戦前にヒット作となった170Vの生産を再開した。170Vは独立フェンダーを持つまったくの戦前型ボディだったが、1955年まで生産されてロングセラーとしてユーザーに支持された。

1952〜53年型の170Vb。170Vの戦後型モデル。ボディは、初登場した1930年代スタイルのままだった。
新しい小型車も検討されていた。1948年には、従来のメルセデス車では前例のない小ささのコンパクトカーが企画された。

1948年に設計図が描かれた小型車。2+1シーターで全長が3.7mあまりしかない。前輪駆動である。
戦前のリアエンジン小型車の130でも全長は4mあったのが、全長は約3.7mしかなく、1990年代に久しぶりに登場したFF車のAクラスに近い大きさだった。エンジンは4気筒1.2Lで、残されている図面を見る限り、駆動方式はFFを採用しているようだった。ただし、これは計画だけで終わってしまう。
1953年になると、W120型が市販される。これは170Vの系列を継ぐ新型車で、現在のCクラスに相当する。W120は独立フェンダーのないフラッシュサイドのボディを持つ、戦後型にふさわしい外観だった。何よりも安全設計の点で時代に先んじており、衝撃吸収構造をいち早く採用していた。

1953年に登場したW120型の180。同じボディで1.9Lエンジンの190はW121型。戦後のメルセデス・セダンの出発点となったモデル。全長は約4.5m。
メルセデスは、さらにこのW120を簡素化したようなW122の開発にも着手していた。W120よりは安価で、W120にはない2ドアモデルも設定された。さまざまなモックアップ・モデルが製作され、4ドアだとボディの大きさはW120と同程度だったようだが、SL風のフロントマスクを採用した提案もあり、より若々しい印象があった。

W122型のデザインスタディのひとつ。2ドアで、なおかつSLのようなグリルを採用。近年のメルセデスのセダンやクーペを先取りしたようなグリルの仕立てだ。
W122は市販化に近いステージまで開発が進んだが、またも計画は中止されてしまう。その背景としては、1958年にダイムラー・ベンツがアウトウニオンを傘下に収めたということがあった。アウトウニオンは戦前に設立されたフルラインメーカーで、戦後は2〜3気筒の2ストローク エンジンを積む小型FF車のDKWだけをつくっていた。小型メルセデスは、そのDKWと重なってしまうということで計画が見直されたのである。

W122型の1956年のデザインスタディ。これもグリルがSL風で、1960年代のメルセデスの特徴となる「タテ目」のヘッドランプを採用している。
W122が中止されたあとも、DKWの技術を活かしたより意欲的な小型車が計画されることになるが、それもまた生産化には至らなかった。これについては、機会をあらためて紹介しよう。

また別のW122型のデザインスタディ。これは4ドアボディで、W120型と次に出るW110型の折衷型のようなヘッドランプが特徴的だ。
さらにW120も1962年で生産終了になり、その後を継ぐモデルとしてはW110があったが、これはより上級クラスの、今でいうEクラスに相当するボディに、小さいエンジンを積んで、装備を簡素化して仕立てたものだった。そのため、以後約20年間、190Eが1982年に登場するまで、メルセデスから小型のボディがなくなってしまうことになる。

1961年に登場したW110型の180。より上級の220と同じボディで、ヘッドランプをシンプルな丸型にするなど簡素化している。全長は4.7m以上あり、「ミディアム」というべきサイズだった。
アウトウニオンを傘下に収めたことも含めて、メルセデスは戦前から小型車クラスに関心を持ち続けていたのだが、縁がなかったというべきか、むしろ中大型車に偏重したラインアップになってしまう。それがいちばん顕著だったのが1962年から82年の期間で、そのときの「メルセデス=大型の高級車」というイメージが日本人にも刷り込まれたともいえそうだ。(文:武田 隆/写真:メルセデス・ベンツ)