新型コロナウイルスの影響はついにモータースポーツの世界にも。6月13日~14日に開催予定だった伝統のル・マン24時間レースが9月19日~20日に開催を延期されることになった。ル・マン24時間と言えば、思い出されるのがマツダの活躍。1991年に日本メーカー初の総合優勝を飾った787Bはあまりにも有名だが、実は初代RX-7ベースのレーシングマシン(グループ5仕様)で参戦していた時代があったのだ。
画像: 1981年にル・マン24時間に参戦した「マツダRX−7 253」。300psまでチューンされていたが、それでもライバル車と比べると非力であったことは否めまなかった。

1981年にル・マン24時間に参戦した「マツダRX−7 253」。300psまでチューンされていたが、それでもライバル車と比べると非力であったことは否めまなかった。

マツダスピードによるル・マン本格参戦が始まったのは1979年のこと。サバンナRX-7はその前年の1978年発売だが、その高性能をアピールする舞台として、ル・マン(IMSA-GTOクラス)が選ばれた。通称「マツダ252i」と呼ばれるこのマシンに搭載されたエンジンは国内仕様の12Aではなく、海外仕様の13Bをベースに開発された。もっとも当時のマツダはレース活動のリスクを鑑みル・マン参戦には消極的であったという。そこで当時はまだディーラーの一部門であったマツダスピードに白羽の矢が立ったのだった。

画像: もう1台の「マツダRX−7 253」。基本的なスペックは2台とも変わらなかったが、コチラのほうが少し軽かったようだ。

もう1台の「マツダRX−7 253」。基本的なスペックは2台とも変わらなかったが、コチラのほうが少し軽かったようだ。

ともあれ、1979年の緒戦に臨むもなんと予選不通過という痛恨の結果に終わってしまった。その屈辱を晴らすため翌々年(1981年)に2台体制でエントリーされたのが「マツダRX-7 253」である。1979年と同じくIMSA-GTOクラスに2台エントリーした。ボディデザインは由良拓也、チーム運営は英国のTWRとマツダスピードが共同で行い、マツダ本社からも支援部隊が加わり盤石の体制で臨んだのだった。今回は予選も無事クリアして本戦に臨んだのだったが、メカニカルトラブルが続出し、結果的に2台ともリタイア…ル・マン完走の夢は、翌1982年に投入された「マツダRX-7 254」まで待たねばならなかった。

画像: ドライバーは寺田陽次朗さん(左)ほか、生沢徹さん(右)、鮒子田寛さんなど超一流どころが揃ったが、それでも完走できなかった。ル・マンの壁は厚かった…。

ドライバーは寺田陽次朗さん(左)ほか、生沢徹さん(右)、鮒子田寛さんなど超一流どころが揃ったが、それでも完走できなかった。ル・マンの壁は厚かった…。

一方、北米大陸では1979年のデイトナ24時間レース/GTUクラスでのクラス優勝を皮切りに順調に実績を重ね、さらにはWRCにも参戦するなど初代サバンナRX-7は、歴代のなかでもっとも積極的にモータースポーツに参加した。

ちなみに今回掲載したカットは、1981年2月に都内で開催された参戦発表会の時に撮影されたもの。モーターマガジン社の資料室の奥深くに眠っていたものが偶然見つかった。「253」の写真は意外や少なく、マツダ・ファンやRX-7ファンにとってはお宝級の価値があるかも?

This article is a sponsored article by
''.