起こるべくして起きた奇跡の勝利
1990年で終わりになっていてもおかしくなかったマツダの挑戦。だが、当時のル・マンは車両規定が目まぐるしく変更され、1991年からは当時のF1エンジン(3.5L自然吸気エンジン)に限定し、大排気量、ターボ、ロータリーの出場を認めないことになっていたものの、十分な出場台数が見込めなかったため、あと1年だけ大排気量、ターボ、ロータリーの出場が認められることになった。
「1991年に向けては、1990年の問題点を関係者全員で徹底的に分析して『勝つためのシナリオ』を構築、マツダスピードとマツダが全力をあげて取り組みました」と小早川さんは振り返る。大橋さんと小早川さんが偶然とはいえ同級同窓の仲でであったことも強力なタッグを組める一つの要因となっただろう。そして1990年のル・マンにむけて100psのパワーアップの必要性を提案してくれたピエールさんが、1991年に向けての残り何カ月かのときに、マツダ787Bのハンドリング特性がおかしいと指摘してくれたのも非常に貴重だ。
「右コーナーの特性と左コーナーの特性が違うので、なんとかならないだろうかとって言ってくれたのです。貴島孝雄さんのグループに協力を依頼、スーパーコンピュータを活用して解析してくれた結果、787Bのリア部分の弱みがわかったのです。マツダ757から一連のマシンを設計してくれたナイジェル・シュトラウドさんはすばらしい設計者ですが、彼の頭にひとつ入っていなかったのは、ロータリーエンジンはレシプロエンジンと異なりテンションボルトでハウジングを全部締めていてエンジン自体が剛体ではないということだった。エンジンブロックがあるレシプロエンジンとは根本的に違うのです。エンジンは剛体という前提でリア部分の設計をしていたために、もうひとつ十分な強度がないということがわかった。
貴島さんのグループが補強のために2本のメンバーをリアのアンダーフロアに入れる提案をしてくれた。ただ、それを入れると、アンダーフロアの空気の流れが変わってしまうと言って当初ナイジェル・シュトラウドさんは反対したが、つけることを決定、これにより操縦性は大きく改善した」
そしてマツダ787Bの55号車が念願のル・マン24制覇を果たす。日本チーム初の快挙で、残り2台も6位、8位となった。まさに金字塔だ。
「1991年はロータリーエンジン車が出場できる正真正銘の最後の年でしたが、いろいろラッキーな面もあった。どこかで女神が見ていてくれたようです。まず本来は1990年が最後の年だったのに、ロータリーがもう一年出られることになったのもそうですし、21時間目までトップを走っていたベンツがリタイアしたのも女神の微笑みとしか言いようがありません。ただし、努力がないところに女神は微笑まない。どこかで女神が一生懸命やっているところを見ていて微笑んでくれたということでなないでしょうか。
そういう意味では松田社長の思いを受けた山本さんが、リーダーシップをとってこられた飽くなき挑戦と同じだと思います。『飽くなき挑戦』というのが山本さんのスピリットであるように、絶対にくじけないでやり遂げるという強い気持ちをチームのメンバーに植え付けた。そのような『飽くなき挑戦』に女神が微笑んでくれたのだと思います。ル・マンに勝った報告のときの山本さんの笑顔が忘れられません。後年までいかにル・マンが自分にとって嬉しい出来事であったかといろいろなところでおっしゃったり、書かれたりたりしていますが。本当にあそこで勝ててよかったなと思います」
勝利の女神の微笑みには後日談もあると小早川さんは付け加えた。
「ル・マンで勝ったあと、55号車を僕の指示でクルマをゴールしたときのままに保存し、1ヵ月半くらいあとにプレスの方々の目の前で分解しました。アペックスシールの摩耗量がわずか平均20ミクロンだったことには驚いたが、貴島さんが冷や汗をかく思いだったと言われたのは彼が設計してくれた操縦性改善のための補強メンバーの取り付け部分が丸形で設計してあったのが、長円形になり破断する一歩手前、まさに限界ぎりぎりだったことです」
全力を尽くした後に女神の微笑みもついてきたということだろう。まさに起きるべくして起きた奇跡の勝利と言えるだろう。〈完〉(取材・文/飯嶋洋治)