オレンジ色の老婦人は帝国海軍の特務艦だった
今回は数奇な運命に翻弄されながら、現在もその雄姿をとどめる、ミラクルな船「宗谷」を紹介しよう。
60代以上の人なら多くが記憶していると思う、昭和30年代に日本初の南極観測隊を送り込んだ南極観測船/砕氷船の宗谷。未踏の極地への冒険航海は、いくつものドキュメンタリーや映画/ドラマなどに登場している。他方で宗谷は南極観測船としての劇的な活躍と別に、元帝国海軍籍にあって唯一現存する(船としての機能を持つ)軍艦でもある。
宗谷が進水したのは、なんと80年以上も前の1938年(昭和13年)。旧ソ連が発注した耐氷型貨物船3姉妹の1隻だったが、竣工する前に、日ソ関係の悪化から日本船籍の「地領丸」となる。しかし、砕氷能力と当時珍しかった英国製ソナーを装備していたため、1940年に大日本帝国海軍が購入し大改装後、測量用の特務艦「宗谷」と改名された。
当初、宗谷の役目は北方領土海域の測量と人員・物資の輸送だったが、戦局の悪化により活動領域を南太平洋まで広げ、輸送船としての任務が主になる。すでに、軍艦も民間船も米軍艦載機や潜水艦の餌食になっていた時局なので、宗谷も魚雷攻撃やトラック島大空襲で何度も被弾するが、奇跡的に致命的な被害は受けず、日本降伏の日まで生き延びた。終戦直後からは、満身創痍のまま在外邦人の引揚船として、1948年11月までに約1万9000人をも帰国させている。
1949年、宗谷は海上保安庁に移籍し、今度は日本全国の灯台に物資を補給する、灯台補給艦として活躍した。1956年、国際的な南極観測の高まりに日本も参加することとなり、耐氷型巡視船の宗谷と、より大型で強力な砕氷能力を持つ連絡船「宗谷丸」が候補に上がったが、改装と運用費用が少なく船齢の若い宗谷が初代南極観測船として決定する。
まったく未知の南極航海に挑む宗谷は、大規模な改造を受ける。主機関は3連成レシプロ蒸気機関/1軸から、ディーゼルエンジン2機/2軸に換装され、1450hpから4800hpへとパワーアップ。砕氷力のカギとなる船首は25mm鋼板で1m延長されて砕氷船独特の形状となり、船体外周も旧外板との合計が25mmになるよう重ね張りされ、オレンジ色に塗られた。後部甲板には日本初のヘリポートと格納庫(小型ヘリコプター2機+小型飛行機1機搭載)が新設され、総トン数増加による浮力と復元力強化のため、両舷に1.5mずつの張り出し=バルジが設けられた。
7カ月の大改装で生まれ変わった宗谷だったが、南極の過酷な自然の前にはあまりに弱小で、第1次と第2次観測では氷に閉じ込められて旧ソ連やアメリカの砕氷船に救出されたり、予定地点まで到達できないため、越冬隊の残留を断念する(有名なカラフト犬置き去り事件)など、想定を超える苦難に直面した。
第3次観測では小型ヘリに加え大型ヘリコプター2機による空輸能力を重視。ヘリポートを一段嵩上げして拡張し、クレーンの移設や強化など改造を加える。しかし、毎回の改装にも関わらず宗谷の傷みは激しく、1961年秋に出港した第6次観測隊は事実上の撤収部隊となり、翌春の帰港をもって日本の南極観測は一旦休止。1965年、海上自衛隊の新造砕氷艦「ふじ」による第7次観測を待つことになる。
南極観測船の重責から解放された宗谷だったが、その後も北海道周辺の流氷海域で巡視船として1978年まで救難活動に奮闘を続けた。船齢40年を超えた1979年から、東京・臨海副都心の桟橋に係留され、昭和史を語る※博物館船として現在も静かな余生を送っている。(文 & Photo CG:MazKen)
※同時代の博物館船として、1930年竣工の貨客船「氷川丸(1万2000トン・日本郵船)」がある。
■PL107 宗谷 主要諸元( )内は旧海軍籍時代
●全長:83.3m(82.3m)
●全幅:15.8m(12.8m)
●総トン数:約2736トン(約2224トン)
●主機関:ディーゼルエンジン 2機/2軸(3連成レシプロ蒸気)
●最大出力:4800hp(1450hp)
●航海速力:11.0ノット(12.1ノット)