現実に合わない大艦多砲主義という妄想が生んだ陸上戦艦
本連載では、以前に第一次世界大戦(WW1/1914~18年)に登場した世界初のマークI 戦車を紹介したが、今回は「多砲塔戦車」と呼ばれる、驚きのモンスターを紹介しよう。
WW1で初めて戦場に投入された戦車は、その後各国陸軍の似たような発想により、急激な発展をする。その発想とは、歩兵支援でなく単独で前線を突破する主力兵器にすることだ。車体両側に2つの砲郭を持つマークI 戦車の当初からあった「陸上軍艦」という構想を発展させ、多数の砲と機銃を備え、全方位射撃が可能という、まさに不沈の陸上戦艦という構想だった。
多砲塔戦車の原典は、フランスのシャール2C重戦車(1921年頃)とされ、車体長なんと12m/69トンの巨体に75mm主砲塔と、8mm機銃を4丁装備していた。後部の機銃座が砲塔型だったので、多砲塔型の元祖となった。この怪物戦車の動力は、後にポルシェ・タイガー試作戦車で知られる、ガソリン エレクトリック方式だから驚きだ。
1925年、イギリスのビッカース社が開発したインディペンデント重戦車は、車体中央に47mm主砲塔を備え、その周囲に7.7mm機銃塔4基を配置した合計5基もの砲塔と、8名が乗り組む本格的な多砲塔戦車となった。しかし、1929年から世界大恐慌が吹き荒れ、巨額の製造費を喰うインディペンデントの量産計画は頓挫してしまう。
他方、共産主義国のソビエトは世界恐慌の影響を受けず、1933年にインディペンデントを模倣したT-28中戦車と、これを大型化したT-35重戦車を次々と発表した。T-28は重量28.9トンの中戦車ながら、76mm主砲塔と運転席の左右に7.62mm機銃塔、さらにふたつの7.62mm機銃ポートを持ち、6名が乗り組んだ。また、最高速度も37km/hと近代的かつ実用的な性能だったこともあり、同期の多砲塔戦車としては異例の503両も生産された。
T-35はT-28の拡大型で、45トンの巨体に76mm主砲塔と左右前後に45mm副砲塔と7.62mm機銃塔の計5砲塔。4つの機銃ポートを持つ、怒ったハリネズミのような姿だった。もちろん銃砲の数が多い分、11名もの乗員が必要で、まさに「戦車好き」なソ連軍の象徴となり、63両が製造された。ソ連はこの後継発展型として、1937年にSMK(45トン)とT-100(58トン)も開発するが、すでに多砲塔型は敬遠する方針が出ていた。
多砲塔戦車の最終形が、有名なM4シャーマンの先代にあたるアメリカ軍戦車のM3中戦車(1941~42年)だ。75mm砲+37mm砲+7.62mm機銃の3階層砲塔を7人で操作したが、無論WW2では早々に旧さを露呈した。
なぜ多砲塔戦車は短命に終わったのか? 答えは簡単で、あまりに複雑な構造による生産性・整備性の悪さと高いコストだった。大型化による重量の増大と、複雑な構造ゆえ各パートの装甲が脆弱。多数の乗員による、劣悪な射撃指揮系統と居住性。そして過大な重量に対し、非力で故障の多い動力と駆動系は致命的だった。
戦間期からWW2初頭まで欧州各地でおこる武力衝突に投入された多砲塔戦車は、あまりに大きく鈍重だった。その結果、野砲や対戦車ライフル、そして小口径砲ながら全周旋回砲塔と高い走行性能を持つ「軽戦車」との交戦で格好の標的となり、容易に装甲を破壊され、また放棄を余儀なくされた。
優秀な兵器とは戦場の要求から開発されるもので、机上の妄想や見栄からは生まれないということが分かる、まさにアダ花的なモンスターだった。(文 & Photo CG:MazKen)