日本人初の快挙達成
高橋国光氏はまだ日本でモータースポーツが発展していない1950年代からバイクに触れ、浅間火山レースに出場し、これがきっかけでホンダのワークスライダーとなる。
1960年代には、ホンダのワークスライダーとしてロードレース世界選手権(現在のMotoGP)に参戦。1961年の西ドイツグランプリの250ccクラスで、日本人ライダー初の世界選手権優勝を果たす快挙を成し遂げた。その後も125ccクラスと250ccクラスで好成績を残し活躍するも、1962年のマン島TTレースでレース中に転倒。一時意識不明の重体になるも回復し、1965年からは4輪に転向した。
59歳までトップカテゴリーで走り続けた
1964年に4輪レースへ転向し、またホンダから日産へ移ってワークスドライバーとしてスカイライン GT-Rの50勝に貢献。箱車だけではなく、フォーミュラでも活躍し、1977年F1日本グランプリにはスポット参戦を果たした。
その後はレース活動を行うだけでなくだけでなく、チーム国光を1992年に設立し、土屋圭市氏とともにグループAで活躍。シリーズ屈指の人気チームとなった。
1994年からホンダ NSXでル・マン24時間レースに参戦。1995年には土屋圭市氏、飯田章氏とともにGT2クラスでクラス優勝を果たした。ドライバー、メカニック、マネジメントをオールジャパンでチャレンジし、自身も55歳で優勝、日の丸を掲げるという快挙を成し遂げた。
59歳まで現役を続け、1999年に引退。その後はTEAM KUNIMITSU監督・総監督としてチームを牽引し、2018年には同チームに所属する山本尚貴、ジェンソン・バトン組がチャンピオンを獲得し、総監督としてスーパーGT王者に輝いた。
誰からも愛された人格者
2020年には長年の功績を称えられ、文部科学省から『スポーツ功労者文部科学大臣顕彰』を受賞するが、関係者のみならず、多くのファンに愛された理由は、凄まじい経歴によるものだけではない。
1977年、鈴鹿サーキットで行われたF2選手権の開幕戦で高橋氏がトップを走りながらも、殘り2周で後続のマシンがコースアウトしガードレールに突き刺さるアクシデントが発生。レース中にもかかわらず、目の前の優勝よりも人命を優先し、マシンをコース脇に停めて救出へ向かったのだ。その姿を見た後続のドライバー全員が次々にマシンを止め、同じく救出へ向かった。レースは成立したと判断され、高橋氏が優勝したというエピソードからも同氏の人柄が見てとれる。
結果が全てのプロの世界では、選手に余裕はない。それは人への接し方であったり、言動に表れることが多い。そんな厳しい世界において、誰に対しても笑顔で、誠実に対応していたのが国光氏だった。成績を残し続ける人間は、絶対的な自信と残酷さを持ち合わせている。言い換えると「いい人」というだけでは勝てないのだ。そんな世界で人徳のある人間が長きに渡り成功を収めるというのは並外れたことである。
多くの人に愛された理由は、成績はもちろんのこと温かくて優しい雰囲気と人柄である。それはこの訃報に対する悲しみの声の多さが物語っている。
まさに日本のモータースポーツ界において、これ以上ない見本のような人がこの世を去った。誰からも愛された「国さん」の輝かしい経歴と優しい人柄は、これからも語り継がれていくだろう。心より哀悼の意を表する。