2021年11月に日本経済新聞で連載された中嶋悟氏の「私の履歴書」が書籍化され、2022年12月6日に発売される。日本人初のフルタイムF1ドライバーを経て現在は国内のレーシングチームで総監督を務める同氏がモータースポーツの過去から現在、そして未来について語っている。

※ここで掲載している写真はすべてイベージで、「いつかはF1 私の履歴書」に掲載されているものとは異なります。

順風満帆ではなかったレーシングドライバー人生

中嶋氏のレースデビューは1973年まで遡る。20歳で鈴鹿シルバーカップに出場しデビュー戦3位の戦績、その後1977年にFJ1300チャンピオン、1981年から2年連続で全日本F2選手権シリーズチャンピオンを獲得。さらに1984年から3年連続で同選手権を制し、国内で星野一義氏との「2強」時代を築きあげる。

そして34歳となった1987年、ロータス・ホンダより日本人初のフルタイムF1ドライバーとして世界進出、日本で巻き起こったF1ブームの立役者となったのだ。

その後ロータスで3年間を過ごし、1990年にティレル・ホンダへとチームを移籍。1991年までの5年間にF1レギュラードライバーとして参戦し、毎年ポイントを獲得する安定感だけでなく、1989年雨のオーストラリアGPではファステストラップを記録した。このLAPが64周目だったことから「64」が中嶋氏のラッキーナンバーになっていることは有名な話だ。

画像: 「いつかはF1 私の履歴書」日経BP 日本経済新聞出版

「いつかはF1 私の履歴書」日経BP 日本経済新聞出版

国内での輝かしい戦績を手土産にF1デビュー、まさしく順風満帆に見えるのだが、実はそうではなかったことが本書では回想録として記されている。そしてF1デビュー時のアイルトン・セナに始まり、ネルソン・ピケ、ジャン・アレジ、ステファノ・モデナなど錚々たるチームメイトと過ごした5年間のエピソードも大変興味深い。

帰国後はチームオーナーに

F1に参戦した5年間をもって中嶋氏はレーシングドライバーとしてのキャリアを終える。そして帰国した翌年の1992年にはナカジマ・レーシンングを立ち上げ、国内トップカテゴリーのチームオーナーとして、また監督として若手ドライバーを指導してきた。その後も30年間に渡ってサーキットで指揮を執り続け、現在も総監督として最前線で活躍を続けている。

画像: スーパーフォーミュラ選手権で総監督として若手の育成に力を注ぐ。2019年4月、開幕戦鈴鹿サーキットにて。

スーパーフォーミュラ選手権で総監督として若手の育成に力を注ぐ。2019年4月、開幕戦鈴鹿サーキットにて。

中嶋氏がレーシングドライバーからチームオーナーへと転身する過程において、様々は困難があったであろうことは想像に難くない。本書ではどのような切り口で描かれているのか楽しみなところ。また現役時代から引退後まで、かつてのライバル達との交流や裏話もレースファンにとっては見過ごせないだろう。

画像: 鈴鹿ファン感謝デー企画「永遠のライバル対決」のワンシーン。星野一義氏(右)とは現役引退後もチームオーナーとして競い合う仲。

鈴鹿ファン感謝デー企画「永遠のライバル対決」のワンシーン。星野一義氏(右)とは現役引退後もチームオーナーとして競い合う仲。

画像: 長男の一貴氏(右)次男の大祐氏(左)、父親の背を追いレーシングドライバーへ。現在は別の道へと進んでいる。

長男の一貴氏(右)次男の大祐氏(左)、父親の背を追いレーシングドライバーへ。現在は別の道へと進んでいる。

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