デビューはモトクロス。18歳で全日本ノービス90ccチャンピオンに
1947年(昭和22年)、静岡県に生まれた星野が中学生になった50年代末から60年代初頭にかけては、敗戦から復興を果たし、余裕を取り戻しつつあった日本にモータースポーツが広がり始めた時期でもある。
しかし4輪レースなどは米軍基地でのドラッグレースやジムカーナなどを除けばほとんどなく、浅間火山レースやモトクロスなどオートバイが中心。59年にはホンダが世界GPへの挑戦をスタートしたこともあって、注目度が急速に高まりつつあった。
当時は野球に打ち込んでいたという星野だが、中学2年の時、たまたま家の近くで開催されたモトクロスを目の当たりにしてからは、一転してモトクロスに夢中になる。モトクロスへの想いは日増しに高まり、63年に高校進学はしたものの1学期で中退。当時のトップライダーの1人である安良岡健へ弟子入り志願の手紙を書いて、家族の反対を振り切りモトクロスチーム「カワサキ・コンバット」の門を叩く。
徒弟制度的な上下関係の厳しいチームの中で激しい練習を重ね、65年に18歳で全日本ノービス90㏄クラスチャンピオンとなり頭角を表す。68年にはカワサキ契約ライダーとなり、ワークスチームだった「木の実レーシング」で全日本セニア90㏄・125㏄のダブルタイトルを獲得、モトクロスのトップライダーへと短期間で駆け上がった。
しかし驚くべきことに、星野はこの年でカワサキを辞めてしまう。星野のカワサキとの契約金が155万円なのに対して、同年代の競輪選手の年収が2000万円というのを聞いて、より稼げるオートレースへの転向を本気で考えたからだ。
日産大森ワークス入り後、4輪レースデビューを果たすが…
しかしちょうどその1969年、日産からワークスドライバーのテストの声が掛かった。これは木の実レーシング時代の先輩で、すでに日産入りしていた歳森康師からの推薦があったためだという。他にもモトクロスライダーなどが多数参加していた富士スピードウェイでのテストで、ほとんどサーキット走行の経験がなかったという星野は、用意されたフェアレディSR311でいきなりトップタイムを叩き出して注目を集める。さらに数回行われたテストでもトップの座を譲らず、ついに日産のワークスドライバーとしての契約を掴み取る。
4記念すべき4輪レースデビューは、同年11月の富士スピードフェスティバル・富士セダンレース。この年はこのレースのみで、本格的な参戦は翌年からとなる。
この時代の日産ワークスチームは、研究開発部門をベースに、日本グランプリなどで活躍したプロトタイプスポーツカー・R380シリーズを走らせていた1軍的存在の通称「追浜」チームと、宣伝部が管轄して市販車改造のツーリングカーやGTカーを走らせる2軍的存在の通称「大森」チームが存在した。「ワークス」とはいえ、星野が契約したのは大森チームの方だ。
70年の星野は、6月の第12回全日本クラブマンレースでスカイラインGT-Rを駆って4輪レースでの初勝利を記録する。しかしこの年に星野が参加したレースは11レースと、それほど多くはない。
加えて70年に日産がプロトタイプスポーツでの活動停止を決めたため、71年には高橋国光、黒沢元治、北野元といった錚々たるドライバーを揃えた追浜チームもツーリングカー、GTカーでの活動に力を注ぐようになり、星野の出番はさらに減少。参戦したレースはさらに減って僅か7レースになってしまう。
チェリーを乗りこなし「FFの星野」として活躍
そんな逆境にあっても星野は、レース以外の練習やマシン開発のためのテスト走行に加え、先輩ドライバーたちのマシンの慣らし走行までを引き受けることで走行距離を稼ぎ、日産のドライバーの中でもナンバー1の豊富な練習量で、ぐんぐんとドライビングを磨いていった。
そしてその走りが一躍注目されるようになったのは、72年に日産が投入したニューモデル、チェリーでの活躍だ。GT-RやフェアレディZなどの一線級マシンで走るチャンスが星野にはなかなか回ってこず、日産初のFF車ゆえに発展途上で、癖の強いマシンであるチェリーしか乗る車がなかったのだ。しかし、その難物マシンを徹底的に走り込むことで乗りこなして見せた。
72年にはサニー全盛のTS1300クラスでチェリーを駆って2勝を挙げることで、「FFの星野」と呼ばれ、高く評価されるまでになる。しかし、73年のオイルショックを引き金に、日産はワークス活動を停止。星野のレース人生は、大きな転機を迎えることになる。(次回に続く)