ホンダのF2参入と最大のライバル・中嶋の壁
GCでの活躍の一方で、国内トップフォーミュラのF2での星野は、1979年から5年連続でシリーズ2位という、押しも押されもせぬトップドライバーとしては悔しさが残る成績だった。
既に触れたように、年を追うごとに多くの強力なドライバーがF2へと参加するようになり、それに合わせてマシンやエンジン、タイヤも急速に進化。79年には松本恵二、80年には長谷見昌弘がF2タイトルを奪っている。いかに星野といえども、その腕一本では簡単には勝てないまでに、全日本F2がレベルアップしたということだ。
さらに80年には、レース活動を休止していたホンダが、V6エンジンを開発してヨーロッパF2への挑戦を開始。そして日本でも81年から、中嶋 悟にそのエンジンが供給されたこともその大きな理由だろう。中嶋はヨーロッパを席巻した強力なエンジンによって、81〜82年にF2を連覇、才能を大きく開花させる。
中嶋がホンダを使うようになって以降の星野は、パワーで劣るBMWエンジンで中嶋を追うという、歯がゆい展開の連続だった。
そんな最中にも、80年には自らのブランドとしてインパルを創業し、83年には自らホシノレーシングを立ち上げるなど、レース活動以外にも多忙な日々を送ることになるが、レースへの執念はますます強くなっていく。
待望のホンダエンジンを手に入れるが・・・
全日本F2では未勝利だった83年だが、78年以来となるヨーロッパF2へも参戦。ドニトンパークでの1戦のみだったが、予選8位・決勝4位という結果を残して雪辱を果たす。
そして翌84年、ホンダユーザーの中嶋とS・ヨハンソンに真っ向勝負を挑み、2人に続くシリーズ3位ながら、第5戦・鈴鹿で勝利を挙げるなど、非力なBMWエンジンで肉薄する走りを見せた。
85年になって、ようやく星野も待望のホンダエンジンを手にすることになる。しかし、中嶋と同じエンジンで走れることになったこの年は、トラブルが多発してポイントを失い、1勝は記録したがシリーズ4位、対して中嶋は5勝でチャンピオンを獲得した。
86年は3勝と星野らしい速さを見せたが、やはりポイントの取りこぼしが多く、シリーズ2位。1勝のみだが全戦でポイントを獲得した中嶋に、全日本F2での3連覇を許してしまう。
そんな中嶋は87年からF1へステップアップしたため、70年代から続いた2人の直接対決はこれが最後となってしまった。全日本F2もこの年限りで終了、星野の78年以来となるトップフォーミュラでの戴冠は、87年からのF3000へと持ち越されることになる。(次回に続く)