松本恵二、鈴木亜久里と組んでル・マン初参戦
国産Cカーのル・マン挑戦は1983年のマツダ717Cが先駆となる。しかし国内外のグループCレースの人気によって、85年にはトムスがトヨタエンジンを搭載したマシンで初挑戦して12位完走するなど、ル・マンへの注目度は高まっていた。
日産のグループC活動を行っていたニスモも、85年のWECジャパンでの勝利によってより大きな予算を獲得、86年には初のル・マン挑戦を実現させることになる。
すでに年齢的にF1GPへの道が難しくなっていた星野にとっても、世界の耐久レースの最高峰であるル・マンは、新しい大きな目標となっていた。
ニッサン86Vと名付けられた86年用のニューマシンは、シャシーはやはりマーチの86年モデルである86G。これにVG30エンジンを搭載したマシンだった。デビューは全日本耐久選手権の開幕戦の鈴鹿500kmだったが、星野は荻原光と組んでおり、スタート前に炎上してDNS(スタート前棄権)。その次のレースがいきなりル・マン24時間となる。
星野は松本恵二、鈴木亜久里と組んでの参戦となったが、予選は24位、決勝も64周でエンジンのトラブルでリタイア。その後、再び全日本選手権に参戦、4戦してPP2回、予選2位1回と一発の速さは見せるが信頼性は改善されず、決勝の完走はWECジャパンでの10位のみ、残りは全てリタイアに終わる。
87年、88年も無念。光が見え始めたのは89年から
翌87年も引き続きマーチ製のシャシーを使用したが、市販エンジンのVG30ベースではなく、レース専用に新設計された3リッターV8ターボのVEJ30を搭載したニッサンR87Eを投入。しかし、待望のVEJ30は全日本ですら完走がおぼつかない。ル・マンでは長谷見組が14位完走するものの、星野のマシンは181周でまたしてもエンジントラブルでリタイアとなる。
88年はVEJ30を大改良したVRH30を搭載したニッサンR88Cが星野に与えられた。しかしこの年も全日本で最上位5位、ル・マンではまたもリタイア。一向に結果が出ないまま、日産と星野は、3シーズンを費やしてしまう結果となった。
そして、89年には完全なニューマシン、ニッサンR89Cが姿を現す。これまでのマーチ製シャシーではなく、専用に設計されたフルカーボンのローラ製シャシーに、新開発されたV8の3.5リッターターボのVRH35エンジンをマウント。星野が長谷見昌弘・鈴木利男とのトリオで、このマシンに初めて乗ったのはル・マン24時間だったが、結果、167周でリタイアとなる。
ちなみに富士500マイルから3戦を走った全日本でも、星野の乗ったマシンは完走できなかった。しかし、予選では安定した速さを発揮。それまでの悪い流れを断ち切るきっかけとして、翌90年以降に期待を感じさせるマシンだったという。(次回に続く)