R33GT-Rベースで挑んだ95、96年は戦闘力で劣り惨敗
さまざまな理由により1990年で一度ピリオドが打たれた、日産のル・マン24時間への参戦。とはいえ、ル・マンでの勝利を目指したR90-92CPシリーズの戦闘力は高く、91年以降もJSPC・全日本耐久選手権で大活躍し、海外でもアメリカのデイトナ24時間レース制覇など、大きな成果を残した。
しかし、グループCのレギュレーション変更の影響による、92年でのJSPCの終了などで戦う場を失う。そのために日産のグループCレース活動自体も終わり、星野のル・マンへの挑戦も一旦、途切れてしまう。
90年以降のル・マン24時間レースは、92年限りでWSPC・世界耐久選手権が終焉した影響もあり、グループCカーが走れたのは94年まで。95年以降もプロトタイプカーのクラスは存在したが、中心となったのは市販車ベースのGTカーで、その中でも特にGTクラスの最高峰、GT1クラスの注目度が高まっていく。
ル・マンのGTへの回帰元年というべき95年、日産も5年振りにル・マンへの挑戦を再開する。もちろんGT1クラスで、スカイラインGT-R(R33)をベースに、ニスモが開発したニスモGT-R LMでだ。星野も当然ドライバーとして参加。
このニスモGT-R LMは、フロントに市販GT-Rと同じRB26エンジンを搭載し、ボディもノーマル車にロールバーを装着して、エアロパーツを取り付けたような、市販車の面影を残した本来の意味でのGTカーだった。
しかし、カーボンモノコックのミッドシップにBMW・V12を積むマクラーレンF1GTR、レース専用に開発されたポルシェ911GT1といった、レースで勝つために根本的に違う発想で開発されたライバルたちの前では、あまりに戦闘力不足だった。
星野が鈴木利男、影山正彦と組んだ95年は予選27位、決勝はミッショントラブルでリタイア。翌96年は利男、長谷見とのトリオで、完走はしたが15位止まりだった。
R390の投入2年目の98年星野最後のル・マンで3位に
しかし、日産もただ手をこまねいていた訳ではなかった。さらに加熱するGT1クラスの開発競争の中、97年に向けて全く新しいGT1マシン、ニッサンR390をデビューさせる。住年のR380シリーズを想わせるR390という車名からも分かるように、ベースモデルが存在しないレース専用のGT1マシン。
イギリスのTWRと共同で開発され、カーボンモノコックを中心とした車体に、最強のグループCカー・R92CPに搭載されていたVRH35エンジンを搭載。日産の、そして星野の悲願であるル・マン制覇へ向けて、万全の体制が組まれたかに思われた。
しかし、R390のデビュー年である97年のル・マンでは、ニューマシンでは避けられない熟成不足によるトラブルに見まわれ、エントリーした3台中2台がリタイア。残る1台、星野/E・コマス/影山正彦組が完走はしたが、12位という成績に甘んじる。
98年もR390での挑戦は続くが、ポルシェ911GT1やマクラーレンF1GTR、メルセデスCLK-LMに加えて、新たにトヨタTS020も登場。プロトタイプクラスにも強豪・ヨーストがエントリーするなど強力なライバルが増え、さらに厳しい戦いが避けられない状況だった。
そんなル・マンを前にして、星野はこの年限りでル・マンから引退することを発表し、背水の陣を敷いて24時間レースに挑んだ。星野、鈴木亜久里、影山正彦のトリオは、ポルシェ、トヨタと終始バトルを繰り広げ、常にトップを伺う4〜5番手をキープ。24時間を走り切って、2台のポルシェに次ぐ3位に入賞! 86年の初参戦から年、9度目にして最後の星野のル・マン挑戦は、待望の表彰台でその幕を降ろすことになった。(次回最終回、2000年代-10年代)