底抜けに回るエンジンのレッドゾーンは9500rpm!
ホンダ S600:昭和39年(1964年)3月発売
1991年に世を去った本田宗一郎氏が本田技術研究所を設立したのは、戦後間もない1946年(昭和21年)のことだった。
ごくつつましいスタートで、まず自転車用の原動機、次いでスクーターとオートバイの生産に進出し、戦後の1950年代に雨後の竹の子のように群生した国内のオートバイメーカー間の激しい競り合いに勝って会社を大きく成長させた。
さらにオートバイの世界チャンピオンシップ・レースに進出し、伝統に輝く世界の強豪をなぎたおしてトップの座につくなど、“世界のホンダ”として着々とその地
歩を固めていった。
ホンダの最大の特徴は、過去にこだわらぬ高度の先進性で、そのことは日本のモータースポーツが開花する前に早くも鈴鹿サーキットの建設に乗り出したことからもうかがえる。
しかし、1963年(昭和38年)5月に第1回日本グランプリが鈴鹿で開催されたとき、ホンダ自身には出走させるクルマはなかった。皮肉な話である。
だが、その前年の東京モーターショーにはホンダとして初めての4輪乗用車(商業車としてはT360があった)市場への進出のさきがけとなる2台のミニ・スポーツカーが出品され大いに注目された。それがホンダS360とS500である。
この両車のデビューと64年8月のドイツGPからはじまるホンダのF1挑戦とは密接な関係がある。
F1マシンもSシリーズ・スポーツカーも、実はオートバイのチャンピオンシップ・レースで得られた重要なノウハウを四輪部門に転用し、さらに大きな発展を見せようとするホンダの偉大なポリシーの一貫だったからである。
そしてそのことは、Sシリーズの基本レイアウトに反映している。S360/500のユニークなチェーンケースを用いた後輪駆動メカニズムが、オートバイ的発想であることは改めて言うまでもないだろう。
ホンダの四輪車部門への進出計画は60年ごろからスタートしたという。当時本田宗一郎社長はロータス・エリートに乗っていた。レーシングエンジン(F1用を含む)であるコヴェントリー・クライマックスのDOHCタイプの4気筒エンジンを搭載し、これまたレース用のZF製のギアボックス付きのこのモデルが、ある程度ホンダSシリーズの発想にも影響を及ぼしたと見ても差し支えあるまい。
だが、ホンダは日本の自動車事情をよく見通していた。一足とびにヨーロッパなみの排気量を持ったスポーツカーへと背伸びをすることはなかった。
日本のモーターリゼーションの底辺は当時あくまでも軽自動車であり、ホンダとしてはそのような購買層を前提としてミニ・スポーツカーを作り上げようとした。
62年発表のプロトタイプには、360と500の2種類があったが、63年の10月から発売されることになったのは500だけとなり、360は幻のスポーツカーで終わった。決定的なパワー不足(33psといわれる)が、その原因だろう。
当時の自動車エンスージアストの期待も大きく、ホンダが最終価格を決定するための懸賞をかけた際、その応募総数が570万通に達したことでも伺える(ひとり何通でも応募できた)。
そして最終的に定められた価格も45万9000円と破格の安さだった。このミニ・スポーツの人気は最初から上々だった。
ホンダS500のエンジンは直4DOHC(531cc)で気筒あたり1個の気化器がつき、出力は44ps/8000rpm(レッドゾーン9500rpm)とオートバイ並みにきわめて高回転で、最大トルク4.5kgm/4500rpmを発生した。
このS500の最大の特徴は、2本の縦方向にスイングするトレーリング・アーム(というよりは油浸=オイルバスのチェーン入りのアルミケース)とコイルによる後輪の独立懸架だが、後部に関する限り、2台のオートバイを平行にならべたのと同じレイアウトになっていた。
S500のパワー不足を補うため64年3月、S600(606cc、57ps/8500rpm)が登場。最高速はS500の135㎞/hから145㎞/hへとアップ、0-400m加速も18秒台後半と十分な実用性能に達し、その人気は確定的なものとなり、ようやく隆盛に向いはじめたモーター・スポーツへの貢献もはかりしれぬ存在となった。後継モデルであるS800に関しては、あらためて紹介する。
S600 主要諸元
●全長×全幅×全高:3300×1400×1200mm
●ホイールベース:2000mm
●重量:695kg
●エンジン型式・種類:AS285E型・直4 DOHC
●排気量:606cc
●最高出力:57ps/8500rpm
●最大トルク:5.2kgm/5500rpm
●トランスミッション:4速MT
●タイヤサイズ:5.20-13 4PR
●価格:50万9000円