翼のない軽飛行機のようなウルトラ・ライトスポーツ
トヨタ・スポーツ800:昭和40年(1965年)3月発売
第1回鈴鹿500kmレースは1966年(昭和41年)1月に開催されたが、これは日本における長距離レースの第1回でもあった。このレースには当時の日本のスポーツタイプの車のほとんどすべてがエントリーしていた。
トヨペット・コロナ、プリンス・スカイライン、そしていすゞ・ベレットなどだが、ヨーロッパの名門スポーツカー、ロータス・エランの姿もあった。
そしてこうした(相対的な)大排気量車にまじって出走していた一群のトヨタ・スポーツ800の走りっぷりが、観客の注目を集めはじめた。
少なくとも一回は給油のためのピットインを行う大排気量車と対照的に、スピードこそ遅いものの特製の69Lガソリンタンクを備えたスポーツ800はピットインなしに走り続け、じりじりと順位を上げ、さらにチームメイト同士で行うスリップストリーム(先行車の後にぴったりつける)走行により無駄なく燃料消費をおさえるなど巧みな作戦により、終盤2-3位を占め、さらにはトップを行くロータス・エランの故障によりトップにおどり出るや、そのまま1-2位を占めて優勝してしまった。
観客は、事の意外さにあっけにとられた。
そしてこのエピソードが、トヨタスポーツ800(エスッパチとかドタハチ、ヨタハチの愛称があった)の最大の特徴のいくつかをはっきりと示してくれる。
極度に軽量化したエアロダイナミック・ボディによる空気抵抗の減少、そして小排気量ながら安定した息の長い走行で、より強力なライバルから巧みに逃げ切ってしまう。
こうした性格のスポーツタイプは、当然世界でも珍しい存在だった。
トヨタ・スポーツ800の原型は、1962年の第9回東京モーターショーに、パブリカ・スポーツの名で参考出品されたモデルである。デザイナーは、ダットサン110/210型のデザインで毎日工業デザイン賞を受けた佐藤章蔵氏と言われている。
このプロトタイプは第二次大戦中の戦闘機などと同じく、後方にスライドするキャノピー(天蓋)が特徴だったが、生産型では雨天の際の不便さ、乗降の不都合(特に女性の)を考慮して通常のドアに改められている。
しかしきわめて簡素なフロントグリル(開口部にはデフレクター兼ガードが一本だけ)、オーバーライダーだけのバンパー、無駄のない曲面構成のボディなど、デザイナーの主張がそっくり生産型に引きつがれている。
このボディにはふたつの大きな特徴があった。第一はそのサイドウインドーに曲面ガラスを使用したことで、これは前面投影面積の減少に大きく寄与している。
第二は、有名なポルシェ911の「タルガトップ」にほぼ1年先がけて、着脱可能のルーフパネルを採用したことである。
この航空機を思わせるエアロダイナミック・ボディの設計には、入念な風洞実験が行われ、それにより前面投影面積は1.33平方メートルと、ポルシェ904の1.32平方メートルとほぼ同一となった。
また空気抵抗係数Cd値は0.30をやや上回る優れた数字を示した。
トヨタ・スポーツ800は、量産車パブリカのコンポーネンツ(構成部品)を多用して安価につくられているが、エンジンも当然ながらパブリカの空冷水平対向2 気筒OHV(U型)に手を加えた2U型である。
ボアは5mm拡大した83mmだが、ストロークは73mmと同一で、排気量は697ccから790ccへと増大している。キャブレターもベンチュリー径を増大し(26φ→28φ)、気筒あたり1個ずつ取りつけてあった。
またクランクシャフトまわりも強化され、圧縮比も8.0から9.0へと高められた。4速ギアボックスを介し0-400m加速は18.4秒、最高速は155km/hである。これは当時の代表的ライトスポーツカー、オースチン・ヒーレー スプライトのそれを10km/hオーバーしている。
しかも上手に走らせれば燃費は市街地で18km/L、郊外のクルージングでは28km/Lと、まさに当時の若者の軽い財布の負担とならぬ数字だった。この「ヨタハチ」こそは、日本のモータースポーツの、いわば青年時代を象徴する傑出した作品のひとつだった。
トヨタ・スポーツ800 主要諸元
●全長×全幅×全高:3580×1465×1175mm
●ホイールベース:2000mm
●重量:580kg
●エンジン型式・種類:2U-B型・空冷水平対向2・OHV
●排気量:790cc
●最高出力:45ps/5400rpm
●最大トルク:6.8kgm/3800rpm
●トランスミッション:4速MT
●タイヤサイズ:6.00-12 4PR
●価格:59万5000円