「037ラリー」の後継として登場した「デルタS4」だったが、037ラリーに十分なポテンシャルがあったこともあり、開発が遅れたのが痛かった。エンジンを縦置きするアイデアは秀逸で、衝撃的なデビューを飾ったものの、「これから」という時に突然グループB時代が終焉を迎えてしまったのだった。(タイトル写真は1986年ミキ・ビアシオンがドライブするランチア デルタS4)

プジョー 205T16を打倒する前に、時代は次へ

1982年から施行されたグループBレギュレーションにいち早く対応し、プロトタイプ並みのレーシングラリーカー、ラリー037でアウディ クワトロを敗って1983年のマニュファクチャラーズ選手権を勝ち取ったランチアだったが、2WDラリーカーでは限界があることは自明であり、すでに1983年1月の時点で次期マシンの開発が決定されていた。 

こうして誕生したのがデルタS4だった。「SE038」の開発コードネームが示す通り、このニューマシンは「ラリー037同様にアバルトが設計を担当し(「SE0」から始まるコードネームはアバルトの開発車両コード。SEはスポルト・エスペリメンターレ=実験的スポーツ車両の略)、ランチアの小型車デルタのサイズとホイールベースを使用して開発が進められたことから、後にデルタS4と呼ばれることになる。

「S4」のSはオーバーチャージド(過給)を表す「Sovralimentata」で、1759ccの直4エンジンが037譲りのアバルト製スーパーチャージャーにKKK製のターボチャージャーを加えたツイン過給(スーパーチャージャーが低中速回転域をターボチャージャーが高速回転域を担当)されること示していた。

一方、「S4」の4が表すのは当然4WDで、S4のシステムは同じミッドシップ4WDのプジョー 205T16とは違い、直4ユニットをミッドに縦置きし、その前方にギアボックスを置いてセンターデフと繋げるというものだった。

しかし開発は遅々として進まなかった。その間ランチアはラリー037にエボリューション2を投入して延命させるなどして対応。エアロダイナミクスを中心に幾多のトライが重ねられたあげく、ようやくホモロゲーション(車両公認)を取得したのは1985年の11月1日。WRCデビューはこの年の最終戦RACラリーとなった。

このシーズンはプジョー 205T16が圧倒的に強かったが、デルタS4はいきなり1-2フィニッシュという衝撃のデビューを果たす。勝者のヘンリ・トイボネンはその勢いのまま翌1986年1月のシーズン開幕戦モンテカルロラリーでも勝利。だが、その若きエースは第5戦のツール・ド・コルスでクラッシュ、死亡するという悲劇に見舞われた。

画像: ランチア デルタS4。プジョー 205T16をも上回る怪物と言われたが、ヘンリ・トイボネンが死亡するという事故が起きてしまった。

ランチア デルタS4。プジョー 205T16をも上回る怪物と言われたが、ヘンリ・トイボネンが死亡するという事故が起きてしまった。

その後、マルク・アレンが孤軍奮闘するも、ラリーカーの完成度としてはデビュー3年目のプジョー 205T16がこの時点では上。デルタS4にトラブルが多発したこともあり、結局ランチアによるマニュファクチャラーズ選手権の奪回はならなかった。

ドライバーズ選手権はアレンが最終戦オリンパスラリーで優勝したことで獲得したかに見えたものの、その後プジョーに失格裁定が下されていた第11戦サンレモラリー(アレンが優勝)の結果をFIAが無効とする判断を下し、プジョーのユハ・カンクネンの手に渡った。

この時点でWRCは安全上の理由で翌1987年からグループB(およびその後継カテゴリーとして予定されていたグループS)を禁止、より市販車に近いグループAで争うことが規定路線となっており、デルタS4はその短いラリーカーの生涯を閉じることになった。

WRC名車列伝のバックナンバー

ランチア・デルタS4(1985年)

●全長×全幅:4005×1800mm
●ホイールベース:2440mm
●車両重量:960kg
●エンジン:直列4気筒 DOHC ターボ
●排気量:1759cc
●ボア×ストローク:88.5×71.5mm
●最高出力:480ps/8400rpm
●最大トルク:490Nm/5000rpm
●駆動方式:MR エンジン縦置き
●トランスミッション:5速MT
●サスペンション:前後ストラット
●車両規則:グループB

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