発売まであと2日。今日も「星野一義ファンブック」から、見どころ・読みどころをご披露します。SCENE.03は「星野一義外伝」。インターネットもない時代、モータースポーツの本場から来た若手ドライバーたちは、なぜ“極東の島国で一番速い男”を知っていたのか?

ホシノは、今も世界のトップドライバーからリスペクトされている

かつて全日本でホシノと覇を競ったレーサーはもちろん、日本で同じレースを闘ったことがなくても、その名は聞き知っていたというレーサーの証言から、「ホシノ」の世界評価を探ってみよう。

エディ・アーバイン
1991年に来日。全日本F3000へ参戦し、1993年には星野と激しいタイトル争いを展開、からくもチャンピオンを逃す。1993年のF1日本GPにジョーダンからスポット参戦。

星野さんのことは、来日する前から知っていたよ。(中略)
1991年に来日して、(中略)当時、星野さんはすでに40代前半だったけど、その現実こそ彼がいかにモータースポーツに賭けているかっていうことを表していたと思う。
すでに星野さんのパフォーマンスはピークを過ぎていたんじゃないかと思うけど、それでも十分に速かった。だからこそ、本当に頂点のパフォーマンスの時は、一体どれだけ速かったのかって思わされたよ。
(中略)
星野さんは外国人ドライバーにとって、“日本のモータースポーツ界のゴッドファーザー”だと思っているし、“日本のセナ”だとも思っている。それぐらいの大スターなんだ。

アラン・マクニッシュ
2002年にトヨタF1から本格参戦するも大きな結果は残せず。一方、ル・マン24Hでは3度のル・マン制覇を成し遂げ、T.クリステンセン、R.デュバルと組んでWECチャンピオンに輝く。

ヨーロッパでは、最初の日本人F1ドライバーということで、サトル・ナカジマの名前を知っている人が多いけど、最初に日本人の実力をヨーロッパに見せつけたのが星野さんだったと思う。
(中略)
80年代後半から90年代前半にかけて、アーバインやフレンツェン、ミカ・サロなど、世界でも速いと言われていた20代のヨーロッパ人ドライバーたちが、全日本F3000に参戦していたよね。その時点で星野さんはすでに40代だったと思うけど、そうした若手のヨーロッパ人ドライバーたちを全て倒していた。

トム・クリステンセン
1992年に来日し、全日本F3に参戦。翌年シリーズチャンピオンに輝く。1994、1995年には全日本F3000・JTCCにも参戦、1994年のJTCCではシリーズ2位、1995年の全日本F3000ではシリーズ3位。

僕は星野さんのドライビングスタイルやレーススタイルが大好きだった。ものすごく激しいレースをするんだけど、一方でとてもフェアだったから。だからこそ、星野さんは多くのタイトルを獲得してきたんだと思う。
また、フォーミュラカーだけでなく、グループC、グループAなど、多くのカテゴリーのクルマを乗りこなしていたよね。そういうところも素晴らしいと思っていたよ。

「The Racing Legend 星野一義 FANBOOK」
A4変形 オールカラー132ページ 2017年4月25日発売 1800円(税込)
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