「日本一速い男」と呼ばれ、かの元F1ドライバーE・アーバインをして「日本にはホシノがいる」と言わしめた「星野一義」。通算133勝、21の4輪タイトルを獲得した稀代のレーシングドライバーの50有余年に渡る闘魂の軌跡を追う。(「星野一義 FANBOOK」より。文:小松信夫/写真:モーターマガジン社)*タイトル写真は、1999年5月20日JTC Rd2 SUGO。鈴木利夫と組んで開幕2連勝を果たす。

勝つためのマシン、R32型スカイラインGT-Rの登場

80代後半のJTCに黒船の如く襲来したフォード・シエラ。「グループAの刺客」ともいうべきこの黒船に対抗すべく、日産が1987年の最終戦に投入したホモロゲーションモデル・スカイラインGTS-Rは、89年末まで開発を進めて戦闘力を増すものの、宿敵・シエラの前に「圧倒的」優位性を築けずにいた。

星野・長谷見らをはじめとする日産勢は、同年に発表されたR32型スカイラインGT-RのグループAマシンを待望することとなる。そして1990年、満を持して日産が投入した新型グループAマシン、R32型スカイラインGT-Rは、それまでのように市販車をレース車両に仕上げるのではなく、最初から「グループAで勝つためのマシン」を目指して開発された。

専用開発されたRB26DETエンジンは、単にハイパワーなだけでなく、排気量ごとに設定された最低重量を考慮した2.6リッターという排気量設定をはじめ、トレッドサイズを含めたパッケージなど、レースを前提にした造りが特長だった。

さらに注目されたのが、その強力なパワーを効率よく路面に伝達できる電子制御4WDシステム。16年振りに復活した「GT-R」の名を冠するのに相応しい、まさに「勝つために生まれた」車だった。

画像: GT-Rの復活を一目見ようと、この西日本の開幕戦に大観客が押し寄せた。このラウンドを星野/鈴木組はポールtoフィニッシュで完勝。2位は長谷見/オロフソン組のリーボックスカイライン。ここから“GT-R神話”は新たな章を書き加えていく(1990年3月18日JTC Rd1西日本)。

GT-Rの復活を一目見ようと、この西日本の開幕戦に大観客が押し寄せた。このラウンドを星野/鈴木組はポールtoフィニッシュで完勝。2位は長谷見/オロフソン組のリーボックスカイライン。ここから“GT-R神話”は新たな章を書き加えていく(1990年3月18日JTC Rd1西日本)。

R32型GT-Rデビューイヤーで文句なしの強さを発揮

GT-Rの全日本ツーリングカー選手権へのデビューとなる90年は、鮮やかなブルーが目立つカルソニックカラーに塗られた星野一義/鈴木利男組GT-Rと、リーボックカラーの長谷見昌弘/A・オロフソン組GT-Rの2台のみがエントリー。

西日本サーキット(後のMINE)で行われた3月の開幕戦で、フォード・シエラやスープラといったライバルたちを尻目に、星野/鈴木組はいきなり強烈な速さを見せつけてPPを獲得した。

決勝では同じGT-Rの長谷見/オロフソン組を2位に従えてデビューウインを果たす。しかもファステストラップも星野という、前年までの苦戦が嘘のような完璧な勝利で、GT-Rのデビュー戦を飾って見せた。

5月に菅生で行われた第2戦も、PPは長谷見組に譲って星野組は予選2位となったものの、決勝は再び大差で勝利。7月の第3戦鈴鹿では再びPPを奪取、決勝は長谷見組との争いとなり2位に。

そしてこの年の第4戦以降、星野組GT-Rは3連勝を達成。6戦5勝、4PP、ポールtoウイン3回という、文句ナシの成績を残し、GT-Rのデビューイヤーでチャンピオンを獲得するのだった。(次回に続く)

画像: この年、星野は影山正彦と組み、3勝を挙げる(1992年9月30日JTC Rd7仙台)。

この年、星野は影山正彦と組み、3勝を挙げる(1992年9月30日JTC Rd7仙台)。

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