トヨタはスポーツプロトタイプカーの開発で出遅れ
トヨタは1963年の第1回の日本グランプリから精力的に参加を続けていたが、1966年から富士に舞台が移り、グランプリの主役となったプロトタイプスポーツカーには静観を決め込んでいた。
しかし、プリンス対ポルシェの対決が話題を呼び、自社のトヨタ2000GTでは勝ち目がないと見るや、翌1967年の第4回日本グランプリを欠場。1968年日本グランプリに向けて、ついにプロトタイプの開発を決断する。それがトヨタ7だった。
「7」とは当時のFIA技術規定のグループ7(排気量無制限のオープンプロトタイプ)を表していた。開発コードネーム「415S」と呼ばれた“初代”トヨタ7は、当時の最先端技術だったモノコックシャシを採用。マクラーレンM1A(1966年)に範をとったかのようなボディスタイルが特徴だった。
エンジンはトヨタ2000GTと同様に技術提携先だったヤマハ発動機が開発を担当した。ヤマハはアルミニウム合金ブロックを持つ3L V型8気筒の61Eを設計。排気量を3Lとしたのは当時の世界メイクス選手権のプロトタイプ規定が3Lに制限されたのに則ったためだった。
しかし、このある意味真面目すぎる判断が裏目に出る。ターゲットだった1968年5月3日の日本GPには、FIAレギュレーションに縛られない米国CAM-AM用5〜6L級のシボレーエンジン搭載車(日産R381やローラT70)が大挙して参戦してきたからだ。
TNT(トヨタ・日産・タキ)の対決と謳われながらも、3Lの初代トヨタ7は主役に成りきれず、4台が出場して最上位が8位という成績に終わった「惨敗」直後の5月中旬、トヨタは5L V8搭載のまったく新しいトヨタ7(474S)の開発をスタートさせることになる。
本格的な開発に着手するもライバルの動向を見誤る
新しいトヨタ7「474S」は、搭載するヤマハ製エンジンの排気量が3Lから5Lへと拡大されただけでなく、初代トヨタ7の特徴だったモノコックシャシ(最先端技術だったが、経験不足から耐久性に欠けていた)を鋼管スペースフレームに改め、ラジエターの搭載位置をフロントからサイドに移すなど、まったく新しいマシンとして開発がスタートした。
ボディスタイルは、当初の構想はポルシェ908のル・マン仕様に触発されたと思われるクローズドボディにロングテールという構成だったが、1969年2月にヤマハが新設した袋井テストコースでこのボディをテスト(エンジンは3Lを搭載)中に事故があったことや、その後のテスト結果も芳しくなかったこともあって5月にオープンボディ+ショートデッキに改められた。
ヤマハの手になる5L V8エンジン「79E」はその直前に完成、「474S+79E」の新型トヨタ7は7月のデビュー戦、富士1000kmと8月のNETスピードカップで連勝。とくにNETスピードカップでは日産製5L V12エンジン搭載のR381を下しての1-2フィニッシュで、トヨタは10月の日本グランプリ本番に向け自信を深めた。
ところがフタを開けてみると、日産は5Lではなく極秘裏に開発を進めていた6Lエンジンを持ち込んできた。グランプリがデビュー戦となるR382の完成度も高く、助っ人参戦の元ポルシェワークスドライバー、ビック・エルフォードを含む5台で挑んだチーム・トヨタは、予選4、5、6、8、9位。決勝では川合稔が好スタートを決めてオープニングラップは奪ったものの、すぐに地力に勝るR382勢にかわされて大差をつけられての3位。4〜5位もトヨタ7だったが、いずれも3周遅れで、前年に続く大敗となった。
トヨタ7も信頼性の高いマシンではあったが、最大の敗因は1968年時と同様、予選タイムで6秒もアップするライバルのレベルアップを見誤ったこと。相手の出来がわからないレースでの開発競争の難しさを痛感させられたトヨタは、レース終了直後、翌1970年の日本グランプリをターゲットにターボエンジン搭載のニューマシンの開発に着手した。
トヨタ7(1969) 主要諸元
●全幅:1880mm
●ホイールベース:2300mm
●エンジン型式:79E
●エンジン:90度 V型8気筒 4バルブDOHC
●排気量:4986cc
●最高出力:530ps/7600rpm
●最大トルク:53kgm/5600rpm
●サスペンション:ダブルウイッシュボーン
●トランスミッション:ヒューランド製5速MT