第一次石油危機が、小型メルセデスの開発を進ませた
およそ20年の間、今でいうEクラス以上の大きなモデルしか作っていなかったメルセデスが、鳴り物入りでコンパクトな190シリーズを発表したのは1982年のことだった。
今まで書いてきたように、メルセデスは小さなモデルをつくろうと何度も試みていたが、実現しなかった。ところが1970年代には、小型モデルの必要性が切実なものになってきていた。安全や環境、そしてエネルギー問題が世界的に重大な関心事になり、自動車にも配慮が求められるようになってきていたのだ。
とくに1973年に勃発した第1次石油危機は決定的だった。メルセデスも燃料を節約できる小型車の開発に進まざるを得ず、1977年、ついに正式な開発へのゴーサインが下された。その2年前の1975年に、重要な輸出先であるアメリカで企業平均燃費規制「CAFE」が議決されていた。
CAFEとは、メーカーが販売するクルマの燃費の平均値が規定値を達成できないと巨額の罰金を払わなければならないという法律で、これをクリアするためには、メルセデスも小型車をつくって売らなければならないと見込まれたのだ。
小型車開発を決断した理由はほかにもあり、ラインアップを小型車まで広げることで、ブランドの活性化とユーザーの若返りを図りたいという思惑もあった。このフルライン化政策と、ブランド活性化の方向性は今日まで進展し続けており、190シリーズの開発は、メルセデス・ベンツにとって大きな一歩だった。
開発は大規模なものになった。たとえ小さいモデルでも、大きなメルセデスと同様の高い安全性、品質、走りなどが備わっていなければならず、ボディ、シャシ、エンジンと、全面的に新しい技術が開発された。
とくに画期的な新技術は、シャシである。新世代のメルセデス各車にも展開されるものとして、新しい形式のサスペンションが開発された。それがリアに採用されたマルチリンク・サスペンションである。今では上級車クラスを中心に、世界中のメーカーが採用しているマルチリンク方式だが、この190の開発時に、メルセデス・ベンツが実用化した。
スタイリングも新しく、ハイデッキで左右が絞り込まれたリアデザインをはじめ、新しい手法が取り入れられた。4ドアセダンでありながら燃費追求のために空気抵抗は非常に低く抑えられていた。スタイリングを統括したのは、この190シリーズ以外にも数多くのメルセデス車を手がけたブルーノ・サッコである。
190シリーズでさらに注目すべきは、スポーティモデルが設定されたことで、1983年にコスワース社が開発協力した直4DOHCを搭載した190E 2.3-16が追加された。これをベースにしたマシンでレースに積極参戦し、この時代までモータースポーツから遠ざかっていたメルセデスのイメージを、おおいに活性化することになる。
190シリーズが誕生する前は、今でいうEクラスに相当するモデルがコンパクトクラスと呼ばれていたが、190が出たことによりミディアムクラスと呼び名が変わった。190シリーズは大成功し、累計約188万台を生産。1993年に登場した2代目モデルからは、新たにCクラスと呼ばれるようになった。現在ではCクラスとして4代目に進化し、メルセデスの屋台骨を支える存在になっている。(文:武田 隆/写真:メルセデス・ベンツ)