平成元年=“ヴィンテージ・イヤー”と呼ばれるこの年を境に、国産車は新たなステップを踏み出した。以後、国産車は自動車先進国のライバルと世界中で熾烈な闘いを繰り広げ、その地位を不動のものとしてきたのはご存じのとおりだ。第1回目は世界を刮目させた「R32型スカイラインGT-R」にフォーカスする。

長い眠りから目覚めた2代目GT-R

昭和48年(1973年)の4月に第1世代最後のスカイラインGT-Rがラインオフして以降、その復活は待望されつつもかなえられる様子はなかった。

その夢が実現したのは、16年後の平成元年(1989年)。初代と同じく、第2世代GT‐Rは日本のドメスティックカーであり、「勝つため」に生まれた。当時の全日本 ツーリングカー選手権(JTC)グループAを席巻していたフォ ード・シエラに一矢報いるべく、 日産が持てる技術の粋を集めて開発されたのがR32型GT‐Rだ。

画像: グループAレースでの必勝を期して開発されたR32型スカイラインGT-R。それまでの国産スポーツが打ち立てたさまざまな記録をことごとく塗り替えた。

グループAレースでの必勝を期して開発されたR32型スカイラインGT-R。それまでの国産スポーツが打ち立てたさまざまな記録をことごとく塗り替えた。

発売翌年から実戦投入された GT-Rの戦闘力はまさに圧倒的。 宿敵フォ ード・シエラを駆逐したばかりでなく、29連勝という快挙を成し遂げ、新たなGT-R伝説を作り上げた。

画像: 平成2年(1990年)から参戦したグループAでは、最終年となる1993年まで無敗・29連勝の記録を打ち立てた。

平成2年(1990年)から参戦したグループAでは、最終年となる1993年まで無敗・29連勝の記録を打ち立てた。

市販車の販売も好調だった。標準仕様で450万円という価格は一見すると高額だったが、中身を考えればバーゲンプライス。当初300psで発売される予定だったが当時の自主規制で280psに抑えられた最高出力、そしてレーシングエンジンさながらのレスポンス、ライバルも続々と280psを謳うも、到底R32GT-Rの敵ではなかった。

画像: GT-R NISMO。平成2年2月22日発表、3月11日に限定500台で発売されたホモロゲーションモデル。

GT-R NISMO。平成2年2月22日発表、3月11日に限定500台で発売されたホモロゲーションモデル。

無敵と言われたR だったが、欠点がなかったわけではない。鋳鉄ブロックを使ったRB26DETT型エンジンは頑丈さと引き替えに重く、ゆえに車体のバランスはフロントヘビーだった。結果的に限界に近づくと強いアンダーステアが顔をのぞかせた。それを何とか抑え込めれば速いのだが、アテーサE‐TSの特性を理解して使い切って走るには高度なテクニックが必要だっ た。またブレーキへの負担も大きく、モデルライフ途中にはキャパシティの拡大が行われた(Vスペック)。

画像: 排気量は当時のグループA規程に合わせて2568ccに設定された。カタログ表記では280psだったが、実力はそれ以上!?

排気量は当時のグループA規程に合わせて2568ccに設定された。カタログ表記では280psだったが、実力はそれ以上!?

いずれにせよ、当時、ポルシェ911ターボに勝てる唯一のクルマと言われるほどに、R32GT-Rは生きながらにして伝説の存在となったのである。

画像: 平成4年4月に発売されたスカイライン・オーテックバージョン。4ドアのGTS-tをベースにRB26DETTをNA化したRB26DEを搭載し、ブレーキほかGT-R用パーツを移植。平成に蘇った「ハコスカ(PGC10)」。

平成4年4月に発売されたスカイライン・オーテックバージョン。4ドアのGTS-tをベースにRB26DETTをNA化したRB26DEを搭載し、ブレーキほかGT-R用パーツを移植。平成に蘇った「ハコスカ(PGC10)」。

平成5年(1993年)にJTCが終了し、R32GT-RはJGTCやN1に闘いの場を求めた。平成7年(1995年)にはR33型へのフルモデルチェンジを経て、平成14年(2002年)にはスカイラインとしては最後となるR34型GT-Rが生産を終了。これをもってスカイラインGT-R第2世代の歴史は終わり、再び眠りにつく・・・。

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