王室の御料車を手掛けてきた伝統
蒋介石の右腕だった高名な将軍の孫娘という初老の女性がやって来る中華料理店が都内にあった。秘書兼ボディガード兼運転手の男性を従えて、女性はいつもひとりだった。チャイナドレス姿が板に付いているのは当然なこととして、それ以上に似合っていたのがデイムラー・リムジンだ。
地味な色合いだが、仕立ての良さそうなチャイナドレス姿の女性がリムジンからスッと降り立つ姿は、強烈なオーラを漂わせていた。
毛沢東率いる共産党に追われたとはいえ、さすがは中国国民党将軍の孫。そのまま閲兵してもおかしくないほど、女性とリムジンの周りには気品と威厳が漂っていた。
デイムラーと聞いて、いつも思い出すのはこのリムジンと将軍の孫娘のことだ。歴史の断片と言うと大袈裟かもしれないが、時代がかったリムジンの姿かたちと相まって、途れることのない時の流れを感じないではいられなかった。
しかし、ちょっと妙だ。調べてみると、あのデイムラー・リムジンが生産を開始したのは1968年だ。エッジの明瞭なフェンダーや各部のキャラクターラインや独立式に見えるラゲッジフードなど、どう見ても1930年代調のスタイリングにしか見えない。1968年に登場する新車だったら、その時代の空気感や造形の時代性などがもっと織り込まれていても良さそうなものだ。
やはり、リムジンという性格と、イギリス最古の自動車メーカーであり長年に渡って王室の御料車を手掛けてきた伝統なのだろうか。
もちろん、デイムラーは御料車だけを作ってきたわけではなくて、1960年にジャガー社に買収される前には、自前のエンジンを搭載した独自の高級サルーンを複数生産していた。1958年にはSP250なんていうFRP製オープンボディを持った2シータースポーツカーだって発表している。
リムジンは別格として、デイムラーという自動車メーカーの特徴とは、いったい何なのだろう。
最近の流行り言葉で言えば、ブランドアイデンティティとか、DNA。クルマ作りの拠りどころをどこに置いているのか。何のため、誰のためにクルマを作っているのか。
ちなみに、イギリス王室の御料車は、2002年からベントレーが製作することになった。公開されたその1号車は巨大で古めかしく、何となくデイムラーのそれに雰囲気が似ていた。
したがって、イギリス王室の御料車メーカーという触れ込みはデイムラーにとってはもう過去のものとなってしまったわけだ。さあどうする、デイムラー?
ただ豪華なだけではない、その違いが理解できること
デイムラーという名前を知っているのは、現代の日本では、かなりクルマに関心のある人に限られるだろう。まず、ダイムラーベンツとの違いがアヤフヤになるらしい。
将軍の孫娘が通っていた中華料理店のマネージャーからも、いつも「ベンツとは違うんですよねぇ?」って訊ねられていた。デイムラーとダイムラーベンツは、今は関係ないけど、大昔はあったからややこしい。
フレデリック・シムズというイギリス人技術者が1893年にイギリスでのダイムラーエンジンの製造・販売権を取得したのが、デイムラーの始まりだと資料にある。1896年には、シムズから経営を引き継いだハリー・ローソンという男性が会社をコベントリーに移転し、自動車製造に乗り出した。
イギリス王室からデイムラーが御料車に指名されたのが1900年。6馬力のフェートンが納入された。
これにならって、当時の各国の王室もデイムラーを御料車に指名し、日本の皇室も1912年に初の御料車をデイムラーから採用した。
第一次世界大戦が始まると、デイムラーは戦車や装甲車などの軍用車量などの製造にも乗り出す。海軍大臣だったウインストン・チャーチルが推し進めた世界初の戦車プロジェクト「Mk1」にはデイムラーのエンジンが採用された。
また、1926年にはイギリス初のV型12気筒エンジンを搭載した「ダブルシックス」を発表し、1936年に発表した直列8気筒を積んだ「ストレートエイト」は、第二次世界大戦をまたいで、1953年まで作り続けられた。
デイムラーは、御料車製造の栄誉を担うと同時に、技術が伴っていなければ務まらない軍用車輛製造に携わっていた。しかし、第二次大戦後の世界は高級車には生き難かったのか、1960年にジャガーに買収されてしまう。
それ以降に開発されたクルマは、リムジン以外はすべてジャガーをベースにしてエンブレムを貼り換えて、内装と装備を豪華にしたクルマに過ぎない。そのリムジンも、シャシやパワートレーンをジャガー420Gと共用している。
バッジエンジニアリングと言ってしまえばそれまでだが、以降、デイムラーのブランドネームは長らく消滅することはなかった。ジャガーのV型12気筒を積んで、往年の車名を復活させた「ダブルシックス」などは、今でも人気が高いくらいだ。
そして、今から7年前に一度消えたが、2005年に導入された「デイムラー」でデイムラーの名前は甦った。今度は、車名も「デイムラー」とあるだけで素っ気ない。ただし、ラゲッジフードには「スーパーエイト」のエンブレムが掲げられている。
デイムラーのブランド価値は、どこに備わっているのだろうか。デイムラーは、ジャガーXJの「4.2ソブリンL」がベースとなっている。アルミシャシに電子制御アダプティブダンピングサスペンション「CATS」を装備し、スーパーチャージャー付き4.2L V型8気筒エンジンを搭載する構成は、まったく一緒。
外観上の一番わかりやすい違いは、デイムラーが長年デザイン上のアイデンティティにしている「フルーティッドモチーフ」だ。フロントグリルとラゲッジフードの上縁に波状の凹凸があしらわれている。大昔のデイムラー各車は、こうすることでラジエータの放熱効果を高めていた。現代では、あくまでも、その象徴としてデザインに残されている。
もうひとつの外観上の識別点は、デイムラー専用のボディカラーだろう。全6色中のウエストミンスターブルーとガーネットがデイムラー専用となる。
インテリアでは、ダッシュボードやドアに張られたバーウォールナットとそこに埋め込まれた象眼細工、シートに張られた革などもスーパーエイト専用のもの。立派な革装幀が施されたカタログには、「ルーシュ縫製が施された最高級レザーシト」と書いてあるけれど、あいにく「ルーシュ縫製」がわからない。
インターネットで検索してみたら、ヒットしたのはジャガージャパンのオフィシャルサイトとこのクルマを取り上げている自動車関連のサイトという始末。実物を見ても、縫い方の違いまではわからなかった。
伝統の重みと現代性を兼備、デイムラーネスの真意
専用装備はまだあって、フロントシートの裏側には前出のバーウオールナットを用いた可倒式のトレイが備わっている。ピカピカに磨き上げられたトレイは見事なものだが、水平に保つことができないのは画竜点睛を欠いている。左右両方とも、少し前下がりになるのだ。
これじゃ滑りやすいものは置けないし、なんとなくヒンジ部分も頼りなさそうに見えてくる。もしかして、これを実際に使うなんて、「伝統ある高級車」に縁のな野暮天(やぼてん)のすることなのかと邪推ひとつもしてみたくなってしまった。
前席ヘッドレストの背面には、トレイとは対照的によくできた6.5インチ型のディスプレイが左右に埋め込まれているから、野暮天でもDVDぐらいは楽しむことができる。ベースとなっているジャガーXJ 4.2ソブリンLの1220万円より460万円高い1680万円がデイムラーの価格だ。差額の460万円のほとんどは、意匠と上等の素材とその加工代だ。
走れば、当たり前だがXJと何も変わらない。どんな走り方をしてもしなやかに路面の凹凸を受け止め、軽やかに走る。柔らかな乗り心地はドイツのライバルたちとは大いに趣を異にしていて、ジャガー(デイムラー)でしか味わえない。
2003年にジャガーXJがフルモデルチェンジし、シャシをアルミ製に全面的に改めた。当初は、アルミシャシ特有の「乾いたような」乗り心地が、それまでのXJのしっとりとしたものとは隔たりが大きいように感じていた。だが、それ以後に、さまざまなシチュエーションでXJに乗り、こうしてデイムラーを試してみると、伝統のXJの延長線上にあることがわかる。それだけ、この走りっぷりには深みがある。アルミシャシは、XJとデイムラーに現代性をもたらしているのだ。つまり、XJはジャガーの開発陣が必ず口にする「ジャガーネス」が備わった、モダンジャガーなのである。
さて、XJが素晴らしければ素晴らしいほど、デイムラーの存在意義が厳しく問われることになる。繰り返すが、走りっぷりでのXJとの違いはどこにもない。前述した内外の意匠や素材などの違いと「デイムラー」という名前が付いていることにどれだけの価値を見出せるか、だけだ。個人の好みの範囲内と言っても構わないだろう。
現代は、さまざまなプレミアムカーが世に現れ、その「プレミアムぶり」もバラエティに富む時代だ。直球勝負で新しい技術やパフォーマンスを売り物にしているクルマだけでなく、デザインやブランドイメージに軸足を置いているものもある。
そんな中にあって、デイムラーは極北に位置している。忘れた頃になって、歴史の彼方に消えかかったブランドイメージに人工呼吸を施し、XJの最高級版に仕立て上げられたクルマだ。乗れば素晴らしさに舌を巻いてしまうが、XJでなく、どうしてもデイムラーでなければならないという必然性が極端に低い、と思う。
プレミアムカーとはそういうものと構えることもできるが、どうも、次の展開が想像し難い。件の中華料理店は店を閉めてしまったが、将軍の娘は、あのリムジンからこのデイムラーに乗り換えるのだろうか。(文:金子浩久/Motor Magazine 2006年9月号より)
デイムラー スーパーエイト 主要諸元
●全長×全幅×全高:5215×1900×1455mm
●ホイールベース:3160mm
●車両重量:1820kg
●エンジン:V8DOHCスーパーチャージャー
●排気量:4196cc
●最高出力:406ps/6100rpm
●最大トルク:553Nm/3500rpm
●トランスミッション:6速AT
●駆動方式:FR
●0→100km/h加速:5.3秒
●車両価格:1680万円(2006年)