今から約64年前の1957年4月24日、日本最古のスポーツセダンが誕生した。その名は「プリンス スカイライン」。日産自動車に吸収合併される前のプリンス自動車時代の名車である。その源流は、後の3代目C10型「ハコスカ」GT-Rの誕生(1969年2月21日発売)へと繋がっていく。ここでは、50年余に亘るスカイラインとGT-Rの軌跡をまとめた「スカイラインGT-R Story&History Vol.1/Vol.2」Boxセット発売(2021年4月27日)を記念して、その栄光の軌跡を数回に分けて振り返る。(スカイラインGT-R Story&History Vol.1より)

ヨーロピアンルックの小型ファミリーカーに転換した2代目プリンス スカイライン

スカイラインが高性能スポーツセダンとして認知されるのは、2代目のS50型の時である。初代ALSI型は、どちらかというとアメリカンスタイルを採り入れたボディが印象的で、大型の高級ファミリーカー路線を歩んだ。だが2代目のS50型プリンス スカイラインは、一転してオーソドックスなヨーロピアンルックを持つオーナーカー&小型ファミリーカーへと転換を図った。

1963(昭和38)年9月に登場したS50型スカイライン1500は、軽量かつ高剛性のモノコックボディを採用し、エンジンも1.5Lの4気筒 OHVのG1型だけに絞り込んでいる。1500デラックス(S50D-1)は、激烈な販売競争が始まっていた1.5Lクラスへのプリンスの切り札として投入されたモデルで、従来の1900はグロリアシリーズに移し、1500のみとなった。また、リアサスペンションもそれまでのド・ディオン式をやめ、平凡な半楕円リーフリジッドアクスルとした。

プリンス スカイライン 1500デラックス(S50D-1型 )。2代目スカイラインはデラックスが1963年11月に発売され(発表は同年9月)、翌1964年4月にスタンダードが発売された。価格は前者が73万円、後者が62万円だった。

2代目スカイラインは、エンジン、シャシともシンプルな設計を心がけたが、G1型エンジンはクラス最強のスペックを誇ると同時に、シリンダーヘッドとエンジンブロックを「封印」し、必要なのは6000kmごとのオイル交換と3万kmごとのエアクリーナー交換だけとして、2年間または4万kmの保証をつけた。また、サスペンションやステアリングギアボックスも1年間または3万kmグリスアップ不要にして、日本初のメンテナンスフリーを謳った。今では常識だが、当時としては画期的な試みだった。なお、このメンテナンスフリー機構は、1500エステートやLPG仕様のモデルにも採用された。

そしてモデル末期の1967年(昭和42年)夏には、1500デラックスのエンジンをSOHC化したG15型を搭載(それ以外の廉価グレードはG1型のまま)。型式を新たにS57D型とし、プリンス最後のスカイラインとして登場した。

ハコスカGT-R以前に「勝つために生まれた」S54

S50型が登場する4カ月前の1963年(昭和38年)年5月、日本で初めて日本グランプリが開催されている。このレースで惨敗を喫したプリンス自動車は、翌1964年の第2回グランプリにて汚名を晴らすべく、S50型を進化させた高性能セダンの開発に着手した。そのとき企画・製作されたのが、スカイラインGT(S54A-1)である。

画像: 第2回日本グランプリで砂子義一が駆った39号車の復元車。元祖スカイラインGTのS54A-1型である。

第2回日本グランプリで砂子義一が駆った39号車の復元車。元祖スカイラインGTのS54A-1型である。

GTはスカイライン1500(S50型)のバルクヘッドから前をホイールベースで200mm延ばし、2代目グロリアのスーパー6に積まれていた2LのG7型直列6気筒SOHCユニットを強引に押し込んだ。スカイラインGTは、日本で初めて「GT」を名乗った高性能モデルで、ホモロゲーションを満たすため、100台が製作され、1964年3月に発表されている。

標準仕様のG7型エンジンは、圧縮比は8.8で、シングルキャブを装着し、最高出力は105ps / 5200rpm、最大トルクは16.0kgm / 3600rpmを発生した。しかも、レース仕様はオプション装備として用意したウエーバーのツインチョーク キャブレターを3連装してパワーアップ。トランスミッションも3速+OD付きとした。また、コーナリング性能を高めるためにLSDを装着している。ちなみに「S54R」と呼ばれたレース仕様のスカイラインGTは、最終的に152ps以上を絞り出し、フロントのトレッドが10mm拡大されていた。

「スカイライン神話」の誕生。そして「伝説」の始まり

画像: 1964年(昭和39)年5月、鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ。国民の注目を集めた決勝のスターティンググリッドに並んだのは、予選1-2位をNo.41の生沢 徹とNo.39の砂子義一のプリンス スカイラインGT、3位は予選でクラッシュし、応急処置を施した式場壮吉の駆るNo.1のポルシェ 904カレラGTS(前列左端)。プリンスはこのGT-IIクラスに計7台のスカイラインGTを投入した。

1964年(昭和39)年5月、鈴鹿サーキットで開催された第2回日本グランプリ。国民の注目を集めた決勝のスターティンググリッドに並んだのは、予選1-2位をNo.41の生沢 徹とNo.39の砂子義一のプリンス スカイラインGT、3位は予選でクラッシュし、応急処置を施した式場壮吉の駆るNo.1のポルシェ 904カレラGTS(前列左端)。プリンスはこのGT-IIクラスに計7台のスカイラインGTを投入した。

そして迎えた第2回日本グランプリ。GT-IIレースに出場したスカイラインGTは式場壮吉のポルシェ 904GTSを抑えてポールポジションを奪取。決勝では格上のポルシェの圧勝に終わるものの、生沢徹の駆るスカイラインGTはわずか1周ではあったがポルシェを追い抜いてトップを走った。しかも、優勝は逃したものの上位を独占する活躍を見せた。これが世間から評価され、同じスペックのGTを望む声が一気に高まっている。

画像: 第2回日本グランプリ、これが「伝説」の1シーン。7周目のヘアピン立ち上がり。式場のポルシェ904が周回遅れに前をふさがれたことを機に、生沢のスカイラインGTがアウトから2台を抜いて一瞬トップに立つ。この瞬間、スカイライン神話が生まれた。

第2回日本グランプリ、これが「伝説」の1シーン。7周目のヘアピン立ち上がり。式場のポルシェ904が周回遅れに前をふさがれたことを機に、生沢のスカイラインGTがアウトから2台を抜いて一瞬トップに立つ。この瞬間、スカイライン神話が生まれた。

そこで1965年(昭和40年)2月、正式にカタログモデルとして登場したのがS54B-2と呼ばれるスカイライン2000GTだ。スペックはレース仕様とほぼ同じ。ウエーバーの40DCOEキャブを3連装し、圧縮比を8.8から9.3に上げて、最高出力は125ps/5600rpm、最大トルクは17.0kgm/4400rpmを発生。OD付き3速フルシンクロのギアボックスを備え、最高速は180km/hと、当時としては日本最高のパワースペックだった。

同じ1965年9月にはシングルキャブ仕様で青バッジを付けた2000GT-Aを仲間に加えた。これを機に2000GTは2000GT-Bと改名している。赤バッジのGT-Bはサーキットで敵なしの快進撃を続けた。そして、1966年(昭和41年)10月には日産自動車との合併を受けて「ニッサン プリンス スカイライン」を名乗っている。これ以降の2000GT系がS54B(A)-3だ。さらに1967年8月には、1500デラックスが新世代のSOHCエンジンを搭載した。(次回へつづく)

画像: 1965年10月の東京モーターショーに展示されたスカイライン2000GT-B。

1965年10月の東京モーターショーに展示されたスカイライン2000GT-B。

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