2024年8月2日、ホンダは1964年8月2日に行われたドイツGPでのF1初参戦から60年を迎えたが、その道のりは順風満帆ばかりではなかった。四輪市販車の開発に注力するため1968年を最後に撤退したホンダが、再びF1への復帰を果たすまでに15年の月日が必要だった。

復帰10戦目で勝利、次第にウィリアムズ・ホンダの勢いは決定的なものに

低公害エンジンの先駆けとして開発したCVCCエンジンで世界から高い評価を得て、ライフ、シビック、アコードの発売で四輪市販車のラインナップの基盤を築き上げたホンダは、1978年新年の記者会見でレース復帰を発表した。

ただF1撤退からの10年のブランクを考えるとすぐには踏み切れず、まずはF2での実績と経験を積み上げてからF1に挑戦することになったため、F1の参戦までにはさらに5年の歳月を要することになる。

そのF2では参戦2年目の1981年に欧州F2選手権制覇を成し遂げ、1983年から1984年にかけて12連勝という金字塔を打ち立てた。

F1第2期はエンジンをコンストラクターに供給して、共同作戦で参戦する方法を採った。ホンダだから勝って当然と言われたが、1983年7月のF1イギリスGPにスピリット・ホンダで復帰したものの、わずか5周でリタイア。この年の最終戦、南アフリカGPでは、ウィリアムズ・ホンダがデビューし、ケケ・ロズベルグのドライブで辛うじて5位入賞を果たした。

復帰2年目の1984年からは、ウィリアムズ・ホンダとして参戦し、ロズベルグがダラスGPで優勝。復帰後わずか10戦目で勝利を挙げたが、エンジンのパワー不足は解決せず、その後が続かなかった。

復帰3年目の1985年は、6月の第5戦カナダGPから新エンジンを投入して4勝をマーク。とくに終盤の3連勝は圧巻で、ウィリアムズ・ホンダの勢いは決定的なものになった。

そして、エンジン設計分野でもマネジメント分野でも飛躍的に進化した1986年は、ブラバムから新加入したネルソン・ピケが4勝、ナイジェル・マンセルが5勝をあげ、16戦9勝という圧倒的な強さでコンストラクターズタイトルを獲得した。

画像: 1986年スペインGPのウィリアムズFW11/ホンダ。この年、16戦9勝をあげてコンストラクターズタイトルを獲得したものの、ドライバーズタイトルを逃がす。

1986年スペインGPのウィリアムズFW11/ホンダ。この年、16戦9勝をあげてコンストラクターズタイトルを獲得したものの、ドライバーズタイトルを逃がす。

念願のダブルタイトルを達成したウィリアムズFW11B/ホンダ

1986年に初のコンストラクターズタイトルを獲得したものの、ドライバーズタイトルを逃がしたウィリアムズ・ホンダは、1987年、FW11の発展改良型であるFW11Bを投入する。

エンジンは規定変更でターボエンジンにポップオフバルブが義務づけられたが、もはやホンダの勢いを止めることはできず、過給圧を抑えられたにもかかわらず予選仕様では1000psオーバーというパワーを絞り出した。

1987年のウィリアムズ・ホンダは、シーズン序盤こそアラン・プロスト(マクラーレン・TAG)や、この年から同じホンダ製エンジンを搭載するロータスのアイルトン・セナに敗れるレースもあったが、シーズン中盤から連戦連勝を記録。16戦9勝、12ポールポジションという圧倒的な成績で、2年連続のコンストラクターズタイトルを獲得。ドライバーズタイトルも日本GPの予選でマンセルがクラッシュし決勝を欠場したことにより、ネルソン・ピケにもたらされた。

念願のダブルタイトルを達成したホンダは、翌1988年シーズンからエンジンの供給先をマクラーレンとロータスにすることを発表、1983年終盤から活動をともにし、ダブルタイトルを獲得したにもかかわらず、ウィリアムズとホンダのコンビはこの年限りとなった。

■ウィリアムズFW11B/ホンダRA167E(1987)

車体構造;カーボンファイバーモノコック
ホイールベース:2845mm
トレッド前/後::1778/1625.6mm
サスペンション:ダブルウイッシュボーン+インボードスプリング
タイヤ前/後:12-13/16.5-13インチ
燃料タンク :195L
トランスミッション:縦置き6速マニュアル
車体重量:540kg
エンジン: ホンダ RA167E
形式:水冷80度V6DOHC24バルブ+ツインターボ
総排気量:1494cc
ボア×ストローク:79.0mm×50.8mm
最高出力:1050ps以上/11600rpm
燃料供給方式:PGM-FI

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