「Auto e Moto d'Epoca Bologna」は、欧州屈指の規模を誇るクラシックカー&オートバイのイベント。2025年もF1ヒストリーの特設コーナーや博物館による特別展示など、さまざまなモータリゼーションを巡る好奇心を刺激してくれた。その盛り上がりを、イタリア在住の日本人ジャーナリストが紹介する。(report & photo 大矢アキオ ロレンツォ Akio Lorenzo OYA)

ヒストリーを語る対象になっていた

対するホンダのイタリア法人はクラブの協力も得て、各カテゴリーの歴代モデル38台を600平方メートルのブースに展示した。

画像: ホンダは自社製モーターサイクルの歴史を展開した。

ホンダは自社製モーターサイクルの歴史を展開した。

ホンダ二輪とイタリアの縁は深く、1976年から中部アブルッツオ州アテッサで生産を開始している。1988年にはボローニャの部品製造会社を買収。ローマには先行開発デザイン拠点も擁している。スクーターではイタリア国内の38%、ヨーロッパでは62%のシェアを誇る。

ホンダのモーターサイクルについて語ってくれたのは、筆者の知人で60代半ばのアンドレア氏だ。一時はみずから著名ブランドの地区代理店経営者になるなど、自動車販売業界に長く携わった人物である。若い頃から乗り物好きだった彼は、1970年代に「SL350」でホンダとの馴れ初めを果たした。一旦2ストロークの「スズキGT750」に浮気したあと、ふたたび「CB900Fボルドール」でホンダに復帰したという。まず彼は、当時のイタリア製二輪を語ってくれた。

「ラヴェルダはフレームが安定していて、接地性も抜群だった。ただし制動力が弱かったね。後年ブレンボ製ディスクの採用で改善された頃には、会社自体が経営危機に陥ってしまった」。いっぽうドゥカティのブレーキは優秀だったという。ついでに「200km/hも出せたよ」と、こっそり教えてくれた。「ただし振動がひどく、長距離を走ると手足が痛くなったうえ、ひどく疲れたもんだ」と回想する。

画像: 1971年「CB750FOUR」。

1971年「CB750FOUR」。

対するホンダCB900FとスズキGT750は「150km/hを超えると直線でもぐらつき、両腕でステアリングを握っているのに超人的努力を強いられたものだった。実際、ほとんどのライダーがステアリングダンパーを後付けしていたね」としながらも、「イタリア製と比較して、フィニッシュが優れていて、振動の少なさと快適性が際立っていた」と目を細める。

いっぽう筆者が1987年ホンダ「NS 125RIアドリアティコ」の写真を撮影していていると、ひとりの紳士が親しげに話しかけてきた。「これはホンダであるとともに、イタリア生まれだよ」。事実、イタリア工場から初めて対日輸出されたモデルである。こうしたきっかけから、日本ブランドに親近感をもつ人もいるのだろう。

イタリアにおいて日本ブランド、とくに四輪車は1990年代頃から、高いコスト・パフォーマンスや、装備の豊富さといった実用面で注目されてきた。ところが近年は、今回紹介したように思い出話を聞かせてくれる人と出会うようになった。日本ブランドが欧州メーカーと同様に、歴史を語れる対象になりつつある。そう感じた秋の祭典だった。

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