トヨタのGT魂を継承してきた、主要なレーシングマシンたちを紹介していこう。
第1回は、日本初の本格的グループ7 レーシングカーの「トヨタ 7(セブン)」だ。

日本グランプリで、日産と演じた頂上決戦

トヨタは2000GTで本格的なレース活動を展開していたが、ポルシェ906やプリンスR380という純レーシングカーの時代を迎え、市販車改造の性能限界に行き当たっていた。
対抗車両を持たず1967年の日本グランプリを見送ったトヨタは、68年の大会に照準を合わせて3Lのグループ7カー、トヨタ7を企画・開発した。
しかし、日産が繰り出した奇手、シボレー製5.5Lエンジンを積むR381の前に敗退。その後、耐久レースへの参戦を通して熟成を図り、半年後の日本CAN-AMでは、7L級のアメリカン・グループ7カーを相手に、4〜6位、参加全5台がトップ10入りする実力を証明した。
翌69年、トヨタはエンジンとシャシを一新した5Lのトヨタ7(第二世代)を企画。10月の日本グランプリは6Lの日産R382に及ばなかったが、11月の日本CAN-AMでは8L級のアメリカンV8を積む本場のグループ7カーを相手に川合稔が優勝。
翌70年、トヨタ7は第三世代に進化したが、公害対策のためレース活動からの撤退を余儀なくされ、実戦に臨むことなく、その性能は封印されることになった。(解説:大内明彦)

画像: 初代:1968年 日本グランプリ

初代:1968年 日本グランプリ

仕様が煮詰まらぬまま臨んだ1968年の第5回日本グランプリが、初代トヨタ7のデビューレースとなった。4台が参戦し、大坪善男の8位(トップから5周遅れの75周)が最高位と完敗。写真はバンクからS字に向かう福沢幸雄。

画像: 初代:1968年 日本CAN-AM

初代:1968年 日本CAN-AM

日本グランプリ後、富士、鈴鹿での長距離耐久レースへ積極的に参加して開発・熟成を進めて68年の日本CAN-AMに参戦。富士スピードウェイの最終コーナーが第1コーナーとなる左回り4.3kmコースで開催された。福沢が最上位で4位を獲得。

画像: 第二世代:1969年 日本グランプリ

第二世代:1969年 日本グランプリ

5L同士による正面対決。そう見られていた1969年の日本グランプリだったが、日産R382が6Lだったことであえなく勝敗は決着した。トヨタ7の520psに対してR382は600ps。それでも720kmの長丁場を1人で走りきった川合稔が3位に入賞した。

画像: 第二世代:1969年 日本CAN-AM

第二世代:1969年 日本CAN-AM

リアのオーバーハングをカットし、ウイングも装着した第二世代 トヨタ7のスプリント仕様。前年に続き、1969年日本CAN-AMに出走。写真の川合稔はジャック・オリバーのオートコーストTi22とバトルを繰り広げて見事に優勝。この車型が参戦したのはこの1戦のみ。

画像: マクラーレン・トヨタ:1969年 日本CAN-AM

マクラーレン・トヨタ:1969年 日本CAN-AM

内製にこだわるトヨタとしては異例だった市販シャシの使用。1969年の日本CAN-AMにトヨタ7の5L V8をマクラーレンM12シャシに搭載した「マクラーレン・トヨタ」を投入。ドライバーの鮒子田寛はシャシ性能の違いを痛感したという。

画像: 第三世代:1970年

第三世代:1970年

本場・北米のCAN-AMラウンドへの参戦を踏まえて開発された、第三世代のトヨタ7。開発ベースとしてNA仕様も作られたが、本命は800psのターボ仕様。2世代目と比べシャシ性能が格段に向上したという。お蔵入りが惜しまれたモデルだ。

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