2000GT開発ののち、ヤマハとトヨタの関係はレースに及ぶ
純レーシングカーが必要不可欠と判断したトヨタが、第3回日本グランプリ直後に立ち上げた企画が、3L V8エンジンのトヨタ7のプロジェクトだった。当然ながら2000GTで実績を残したヤマハが開発の中核を担い、1968年日本グランプリが目標だった。
しかし、純レーシングカーの開発ノウハウを持たないヤマハとトヨタにとって、作業はすべて見よう見真似の状態。
車両のフォルムやアルミモノコックの構造が、当時のCAN-AM用グループ7カーであるローラT70やロータス30/40に酷似するのはこのためだ。また、3L V8エンジンが特徴的なリバースポート仕様であるのは、インディ用を模したためだ。
サスペンションはトヨタ2000GTからの流用発展型、DOHCながら2バルブ方式のエンジンは未知の領域に対する安全策と見てよかった。
排気量を3Lとしたのは、大排気量エンジンの開発経験がなかったこと、F1が3Lだったこと、2Lの日産 R380を上回る性能などがその選定根拠となっていた。それでも耐久レースを中心に好成績を残すマシンとなった。

1968年、富士スピードウェイで開催された“第1回日本CAN-AM”での初代トヨタ7。3L V8は公称330psだ。カーナンバー34は6位に入った細谷四方洋。最上位は福澤幸雄の4位だった。
しかし、次の5Lトヨタ7では根拠が一転。日産の大排気量グループ7カーを上回れること、同時にル・マンも含むメイクス選手権(グループ4)への挑戦も視野に入れられていた。
これに応えてヤマハの開発したエンジンが、コスワースDFVを範とする5L V8だった。DFVは4バルブ構成のペントルーフ型燃焼室を持ち、高圧縮下での高速燃焼を実現した近代レーシングエンジンの礎で、トヨタ7の5L V8は、1969年の日本CAN-AMで7L級アメリカンOHVを凌ぐスピードを示し、レースを制していた。

1969年富士1000キロを制したニュー7(鮒子田/大坪組)。フォードコスワースDFVを参考にした5L V8の信頼性は高く、“世界”を意識したものだった。

こちらも5L V8を搭載した“ニュー7”。写真は日本CAN-AM優勝の河合稔。日本グランプリではスポイラーだったが、ここでは一枚ウイングとなっている。
実際には、高張力鋼管によるスペースフレームの剛性不足が露呈。次世代(最終)型トヨタ7では、アルミ合金+FRPの接着構造で軽量化と高剛性化の問題は対策されたが、ターボ化による800ps仕様でCAN-AM挑戦を目指したが、社会情勢と事故(川合稔)の影響により、残念ながらプロジェクトの中止をやむなくされた。

1970年のトヨタ7ターボ。排ガス対策に力を入れる名目での日産のR383の日本グランプリ不参加、トヨタのエース川合稔の事故死などにより実戦投入できなかった。
解説:大内明彦
みんなの知ってるYAMAHAのお仕事【コラム】
トヨタ7の開発を行いながら、本業・バイク部門では1968年にオンロードも走れるオフロードバイクとして、250cc単気筒のDT-1を開発した。これが全米で飛ぶように売れたことにより、ヤマハのイメージが浸透したという。
文:飯嶋洋治

アメリカのヤマハディーラーからの声を聞き、「車重は100kg以下」や「山道走行のため車幅はスリムに」「エンジントルクを大きく」を重点ポイントとして開発されたという。