「ゼロ戦」の半数は中島飛行機で製造されていた?
世界的に有名な日本のプロペラ戦闘機に通称「ゼロ戦」、正式名称「三菱 零式艦上戦闘機」がある。ゼロ戦は三菱の堀越技師が開発したことや、エンジンが「栄」であることも有名だ。ところがゼロ戦のエンジン「栄」の開発製造や、1万機以上も生産された機体の半数以上が、中島飛行機製であることを知る人は少ないだろう。
中島飛行機は、ゼロ戦と同期に自社開発の陸軍 一式戦闘機「隼」を5700機も生産している。隼のエンジンも陸軍呼称ハ115という栄の同型である。海軍の本土防空用局地戦闘機「雷電」(三菱)に相当する二式戦闘機「鍾馗」。大戦末期に登場した海軍の「紫電」「紫電改」(川西航空機)に並ぶ四式戦闘機「疾風」も開発し、紫電+紫電改の2倍強も生産している。紫電改のエンジンで有名な「誉」も四式戦闘機 疾風のハ45と共通だ。
このように、中島飛行機は独自に戦闘機や爆撃機を開発製造する一方で、競合他社にもエンジンを供給している。
「誉」は小型高回転型の高性能エンジン
創業者の中島知久平は海軍軍人で黎明期の軍用機を研究すると同時に、航空機開発の民営化を主張していた。そして1917年に海軍を辞め、「飛行機研究所」を設立したのが中島飛行機の前身となる。この時点で、三菱航空機(1919年頃)や川西航空機(1920年)よりも、先んじて航空機専門メーカーとしてスタートしている。陸軍航空部初代本部長の井上幾太郎少将と懇意だったことから陸軍で重用され、一大航空機メーカーとして急激に発展した。陸軍と仲違い状態だった海軍も、その開発力や生産規模を無視できず、中島飛行機に開発や生産を委ねるほどの巨大企業に成長していた。
ちなみに、最量産機ゼロ戦が約6000機、隼が約5700機、疾風が約3500機と、当時の日本の工業力はもちろん、現代においても単独航空機メーカーとしては空前の生産力で、東洋最大ともいえる。タイトル画像の中島飛行機の陸軍3戦闘機を見ると、開発コンセプトが明確で一貫性があるのに気付く。機体設計者は小山悌技師長と糸川英夫らで、三菱の本庄季郎や堀越二郎と比べても、さらに若い技術陣だった。
3戦闘機のコンセプトは、隼=軽戦、鍾馗=重戦、疾風=両者の融合という開発時期相応の性格付けと進化が見られ、設計には合理性、共通性、前作の改善が重視されているのがよくわかる。意外かもしれないが、海軍より陸軍の方が航空機や空中戦の進化、たとえば防弾板や防炎燃料タンクの採用、高速化・重武装化による一撃離脱戦法を重視しており、その要求が明確な開発コンセプトとなって、一社に一貫して開発生産を委ねた成功例と言えるだろう。
一方、中島飛行機のエンジンは「栄(ハ25/105/115)」の改良で苦しむ。また爆撃機用の大出力エンジンは、三菱が開発製造し海軍が運用する金星や火星に比べると信頼性が低かった。
傑作エンジンと言われた「誉」は、星型7気筒×2列の「栄」をベースに9気筒×2列に進化させた小径高出力がウリだった。しかし、当時すでに航空機用のハイオクガソリンや高品質潤滑油は入手不可能で、本来の性能に達しないだけでなく、ノッキングによる破損も多かった。この小型高回転型エンジンは高精度で強度あるパーツを必要とした。それが生産現場や前線での整備に大きな負担となり、本領をほとんど発揮できないまま敗戦を迎えてしまった。
戦後、中島飛行機は解体されるが、その技術力は旧富士重工だけでなく、戦後日本の自動車産業や航空宇宙産業に広く反映されてゆく。(文&Photo CG:MazKen)
■ハ45-21(海軍呼称「誉21」)エンジン 主要諸元
●型式:空冷 星型複列18気筒
●排気量:35.8L
●過給機:遠心式1段2速
水メタノール噴射装置付
●離昇出力:2000hp/3000rpm
●直径:1180mm
●乾燥重量:850kg
■ハ115 (海軍呼称「栄21」) エンジン 主要諸元
●型式:空冷 星型複列14気筒
●排気量:27.9L
●過給機:遠心式1段2速
●離昇出力:1150hp/2750rpm
●直径:1150mm
●乾燥重量:571kg
■ハ109 エンジン 主要諸元
●型式:空冷 星型複列14気筒
●排気量:37.5L
●過給機:遠心式1段2速
●離昇出力:1450hp/2650rpm
●直径:1263mm
●乾燥重量:720kg
※第2次大戦期の航空機のデータは条件・資料により大きく異なる。