強大なパワーにシャシが追いつかず
ル・マンのレギュレーション変更に伴い、極秘かつ迅速に開発が進められた「917」。しかし、それまで軽量コンパクトなスポーツカーを得意としていたポルシェにとって、大排気量マシンの開発は簡単ではなかった。
1968年7月、フェルディナント・ピエヒ博士の指揮の下、いよいよ「917」の開発が始まる。ただし、その開発は白紙の状態から始まったわけではなく、1969年シーズンの開幕に間に合わせるため、「908」をベースに大排気量エンジンが搭載できるように改良する形で進められた。
開発開始からわずか8カ月、ポルシェ917は1969年3月に開催されたジュネーブオートサロンに姿を現し、すぐさまグループ4のホモロゲーション取得の条件となる25台が突貫工事で生産された。
エンジンは新たに開発された最高出力520ps/最大トルク450Nmの空冷4.5L水平対向12気筒で、シャシはアルミ合金のスペースフレーム、ボディパネルはFRP製、サスペンションなどにはチタンが使われており、車重は800kgほどしかなかった。
しかし完成したマシンは強大なエンジンパワーにシャシが追いつかず、とくに高速コーナーでのハンドリングに問題を抱えていた。
しかも装備されていたサスペンションと連動して可変するスポイラーがレギュレーションに抵触し、空力パーツを追加したものの課題を残したままル・マン24時間レースに参戦することになってしまう。
ワークスチームでも、1台は高速安定性を狙って急遽ロングテールに変更されていたほどだった。当時のポルシェには大排気量スポーツカーの経験が多くなかった。
1969年6月に行われたル・マンには4台の917がエントリーした。予選で好タイムをマークし期待が高まったが、決勝レースでは心配が現実のものとなり、出走した「917」は全車リタイアとなってしまった。皮肉にも援護にまわるはずだった「908」が優勝争いを展開、結局フォードGTに敗れ総合2位となっている。
また同じ年の秋には、ニッサンR382とトヨタ7の対決となった日本GPにタキレーシングと組んで出場したが、優勝争いに加わることなく総合6位に終わった。しかし、この時の経験が翌年のル・マン初制覇へと繋がっていく。(続く)