「社長になったら必ずスープラを復活させる」
2019年5月17日13時、東京・お台場のメガウェブで新型スープラの発表会がメディア限定で開催。イベント終了後、本誌はスープラ復活のキーマンのひとり、GAZOO Racing Companyの友山茂樹プレジデントにお話を伺う機会を得た。友山氏が明かしたスープラ復活の舞台裏を紹介しよう。
時は2000年代前半に遡る。「エンジニアもクルマの運転が出来て、評価ドライバーが言っていることが理解出来なければならない」。かねてより、そう持論を展開していたトヨタ・テストドライバーのトップガン・成瀬弘氏。ニュルブルクリンクのオールドコースを先代スープラで走りながら、助手席のモリゾウこと豊田章男専務取締役(当時)に語りかけた。周囲には数年先に発売されるはずの海外メーカーのテスト車が走り回っている。
「(海外メーカーは)開発中の新型車でここ(ニュルブルクリンク)を走っている。それに比べて、トヨタがここで勝負できるクルマは、中古のスープラしかない…」
悔しさを滲ませる成瀬氏の言葉は、モリゾウにとって忘れられないひと言になった。そして心に誓う。「社長になったら必ずスープラを復活させる!」
2009年6月、モリゾウこと豊田章男氏はトヨタ自動車の取締役社長に就任。だが就任早々、数々の難局に直面してその対応に追われる。だが、翌年6月24日、成瀬氏はテスト中の事故で帰らぬ人となった。
それから3年後の2013年、トヨタはBMWと「スポーツカー」の共同開発を調印した。GRプレジデントの友山氏は語る。
「GRスープラの開発はボトムアップでは無理でした。豊田社長の強い意志があったからから可能になった。それは成瀬さんとの約束を果たすということでもある」。さらに「スープラという名前を復活させるにあたって、最終的に決まったのは比較的最近のこと。と言うのも、豊田社長がなかなかOKを出さなかったから。スープラを名乗るのに相応しいクルマに仕上がるまで、何度も乗ってもらいようやくOKが出たのは昨年の10月くらいだった」と明かす。
「コンセプトカーのFT−1(2014年1月デトロイトショー出展車)を見たときに、豊田社長は決断したのでしょう、これをスープラにしようと。CALTYのデザイナーもスープラをイメージしてデザインしたと説明しましたし。想定していたのは直6エンジン。アメリカではスープラは特別な存在ですから」
とは言え、スポーツカー・ビジネスは厳しい局面を迎えている。それを承知でチャレンジした真意は?
「スポーツカー・ビジネスが厳しいのは、それ以前にメーカーが興味を失っていたのではないか? 儲からないなら、儲かるように努力をするまでです」と友山氏は力強く語った。モリゾウの決意とともに、その統括を一任されたGRのプレジデントもまた、並々ならぬ覚悟をもって新型スープラを送り出したのだ。