マツダ(東洋工業・当時)がロータリーエンジンを開発するのに要した時間は、実に6年。当時の西ドイツ、NSU社がヴァンケル研究所と開発したロータリーエンジンは夢のエンジンと呼ばれたほど優れた構造だった。
そのため数多くの自動車メーカーが技術提携して開発を進めたものの、量産化に至ったのはマツダのみ。いかに多くの努力が積み重ねられたかは割愛させていただくが、まさに社運をかけた開発劇だった。
だからこそ、完成したロータリーエンジンを載せる車体は特別なものでなければならなかった。そこでマツダは既存の車種に載せるのではなく、ロータリーエンジン専用車としてコスモスポーツを開発、1967年に発売することとなった。
市販されたコスモスポーツは世界初のロータリーエンジン搭載量産車になった。それゆえ耐久性を疑問視する声が多く、中にはロータリー否定論まであった。そこで、それらのネガティブなイメージを払拭するため、マツダが選んだのはレースに参戦することだった。
1968年、ドイツのニュルブルクリンク・サーキットで開催された耐久レース「マラソン・デ・ラ・ルート84時間耐久レース」に2台のコスモスポーツが参戦したのだ。レギュレーションによりボディはストック状態と規定され、エンジン本体の改造も厳しく規制されていたので、吸気をペリフェラルとサイドを組み合わせたコンビネーションポートに変更してウエーバーキャブレターをセットした状態で出走している。
レースでは80時間目までは4位と5位につけていたが、1台が脱落。残る1台が総合4位という成績を残している。ロータリーエンジンの耐久性を見事に証明したのだ。
その筋では有名なマラソン・デ・ラ・ルート仕様車
この記念すべきコスモスポーツを再現したのが、今回ご紹介するクルマだ。オーナーの久保田秀行さんはコスモスポーツに20代の頃から乗り始め、コスモスポーツ・オーナーズクラブにも所属するベテラン。ウエストレーシングが1987年に製作した12Aロータリーエンジンを搭載するWEST87Sも所有するロータリーマニアだ。
マニアな久保田さんなので、コスモスポーツが初めて出場したレーシング車両への思いは強かったのだろう。マラソン・デ・ラ・ルート仕様を再現するためコツコツとパーツを集めていた。キモになるのはラジエターグリルを塞ぐように装着される大型ランプ。専用ステーを介して装着されるのだが、これを国内で探しても見つかるものではない。
そこでインターネットにより海外から個人輸入している。また専用ステーはワンオフ製作することで解決。ボンネット上の整流板も作り出すことで再現したのだ。
エンジンは当時のレーシングカーに倣ったコンビネーションポートによりチューニングしている。本体の10A型ロータリーエンジンで問題となるアペックスシールは、なんと3mm厚の金属から製作したものに変更。ウエーバー48IDAキャブレターでセッティングしてある。これによりパワーアップと耐久性を両立したものになり、現役当時よりも速いコスモスポーツが出来上がったというわけだ。
肝心のカラーリングは当時の資料が少なく苦労したと思われるが、かなり忠実に再現されている。ボディサイドにあるMAZDA110Sというのはレースのエントリー名。今に続くマツダの伝統となった数字の車名は、この時に生まれたのだ。
MARCHALやShellのステッカーなどは当時の写真などから起こしたもので、色合いなどに配慮されたもの。黒いホイールは純正。本来ならシルバー塗装とメッキのホイールカバーで構成されるが、ホイールカバーを外して黒く塗装した。これだけで雰囲気はガラッと変わるのだ。
ロータリーエンジン復活を強く望んでいる久保田さんは、このコスモスポーツで各地のイベントに参加している。実車を見る機会は意外に多いので、旧車イベントをこまめにチェックしてみるといいだろう。