4WDによる圧倒的なトラクションでラリーを席巻
高速4WDの可能性を世界にアピールするために、アウディが独自の直列5気筒+ターボエンジンを搭載したグループ4仕様のクワトロをWRCにデビューさせたのは、1981年の開幕戦モンテカルロラリーのことだった。
当時のWRCは、ミッドシップスーパーカー、ランチア・ストラトスの時代が終わり、その後を引き継いだFR車のフィアット 131アバルトやフォード エスコートRSもそろそろ退場か、という絶対的王者不在の時代だった。
そんな中に4WDシステムを搭載して現れたアウディ クワトロは、「こんなデカい車はラリーで勝負にならない」という周囲の懐疑的な声を黙らせる圧倒的なスピードを披露。トラブルとアクシデントでデビュー戦の勝利こそならなかったが、続く第2戦スウェーデンラリーで早くも初優勝。初期のメカニカルトラブルを解決した2年目の1982年には、初のマニュファクチャラーズタイトルを獲得した。
1982年にはもはやWRCに勝つには4WDが必要なことは明らかになっていたが、ここに2WDながらより改造範囲の広い新規定グループBマシンとしてミッドシップのランチア ラリー037が台頭。1983年、アウディもアウディ クワトロをグループB規定に適合させ若干の軽量化を図ったA1、さらには排気量を2144ccから2109ccへとあえてスケールダウンして、ターボ係数をかけた排気量クラス区分で3L以下に収まる(=規定最低重量が下がる)A2を立て続けに投入する。しかしドライバーズ選手権こそ奪ったが、マニュファクチャラーズ選手権はランチアに奪われてしまった。
翌1984年、王座奪還を目指すアウディは、アウディ クワトロをショートホイールベース化し、エンジンをさらにパワーアップしたスポーツクワトロS1を春から投入。ランチアとの死闘を制し、アウディはマニュファクチャラー&ドライバーズのダブルタイトルを獲得する。
だが、時代の流れは早い。この1984年シーズンの終盤からはミッドシップ+4WDという、037とクワトロのいいとこ取りをしたような第2世代のグループBマシン、プジョー 205 T16が圧倒的な力を見せ始める。
一方のアウディは、高速4WD市販車のプロモーションというWRC参戦のコンセプトがあるためにミッドシップ化には踏み切れず、スポーツクワトロS1にド派手なエアロパーツを装着したスポーツクワトロS1 E2(エボリューション2)で対抗するも、趨勢を覆すことはできなかった。
結果的に、アウディのマニュファクチャラーズ選手権獲得は2回だけ(1982年、1984年)、ドライバーズ選手権獲得も2回(1983年、1984年)に留まり、ヒストリーブックに残るアウディの実績は、同時代を戦ったランチアやトヨタ、後年のスバル、三菱、プジョー、シトロエン、フォルクスワーゲンなどには及ばない。
だが、現代まで続く4WDラリーカーの礎として、アウディ クワトロがWRC史上もっとも重要な一台であることは間違いない。
アウディ・クワトロ(1981年)
●全長×全幅×全高:4404×1733×1344mm
●ホイールベース:2524mm
●エンジン:直列5気筒 SOHC +ターボ
●排気量:2144cc
●ボア×ストローク:79.5×86.4mm
●最高出力:360ps/6500rpm
●最大トルク:420Nm/3500rpm
●駆動方式:4WD
●トランスミッション:5速MT
●サスペンション:前後ストラット
●車両規則:グループ4(のちにグループBとして再公認)